映画美学校アクターズ・コース ブログ

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ある世界の構成

 演劇の稽古なるものを見るのはほぼはじめての経験だった。いろいろ新鮮なおどろきはあったのだけれど、ぼくがもっとも強く感じたのは自分が文章を推敲する感覚にきわめて近い作業が行われていることに対するなるほどという感情だ。自分がふだんしていることをしているのだなという身体的な納得があった。

 この文章の推敲と似ているという感覚が普遍的なものであるかはわからない。ぼくはそもそも文章を書くということがとてもきらいで、かなりの年齢になるまで(おそらく20代半ばまで)それを避けるようにしていた。作文の宿題は絶対に“忘れて”、そのままうやむやになるまで忘れ続けるような子どもだった。だから、文章というものは、自分にとって不自然な外側にあるようなものであるという感覚がずっと続いている。自分の身体に素直に一体化しているようなものであるとはどうしても感じられない。ただ、ぼくはとてもよく“しゃべる”人間であるので、言葉というものはわりに無責任にポンポンと出てくるところがある。それは自分の身体に瞬間的になじんだものだ。ただ、その言葉は無責任にポンポンと出されるものであるので、それを並べた際に、どこか文章とは似て非なるものになっている。ある並べられた文章と似た言葉の羅列が目の前にある。それを修正しながら1つの文章としてリアライズしていく、それがぼくにとっての推敲という作業の内実である。

 おそらく、その初期段階の言葉の羅列が文章にはなっていないという感覚は他人にはわかってもらえないような気もしている。意味は通っているし、文法的にもそこまでおかしいことは起きていない。ただ、そのようなものではあっても、どこか、まだ文章にはなっていない気がする。だから、他人にとってはどうでもよいようなことであるだろう、“に”と“には”のどちらかにするかで延々と悩んだり、句読点の位置に頭を使ったりしながら、それを1つの文章として成立させていくための努力をしていく。当然、それに正解はあるわけではないし、永遠に文章は自分にとっての他者であり続けるものであるので、しめきりやらなにやらで仮の納得が生じるまでそれは行い続けられる。自分の目の前で、自分にはコントロールしきれないような何かがつくられていく、そのことはとても楽しいことであると同時に、とてもしんどいことだ。

 

 文章を書くということは基本的に孤独な作業であるので、文章を成立させるに本質的なものである推敲という作業を他人がどうやっているのか、見る機会はめったにない。だけど、今回、松井周さんの演出の過程を見ていて、あ、なるほど!と思った。文章というものでは見ることができない推敲の過程ときわめて似たものを見せていただけているのだという感動があった。

 そこには単純なパターンがあるわけはなく、また、演出家の頭の中にある理想型を他人の声と体を使ってリアライズしていく作業があるわけでもない。体と声、言葉という徹底して自分にとって他なるものと関わり合いの中から、1つの演劇を構成していくという途方もない作業が目の前で行われていた。先週の木曜日には生い茂りすぎた茂みに道をつくるべくさまざまな木々の枝葉を切り揃えていく作業を見たし、昨日の火曜日には一見つながったいるように見えながら実はつながっていない道をていねいにつくるべく、遅々とした歩みで岩盤を堀っていくような作業を目にすることができた。

 ここでは演出家の松井さんのしている作業について書いてみたが、おそらく、役者のみなさんもそれぞれがそれぞれで、松井さんの演出の流れの中で似たかたちで自分の演技の構成を試みているのだと思う。

 自分の経験から推測しても、これだけの長い期間、この作業を行っていくというのは相当、体力が必要なものであるだろう。そして、そこには途方もないしんどさと途方もない楽しさの両方があるのだと思う。そのような作業の果てに成立した作品をとても楽しみにしております。あともう少しがんばってください!!

 

[2013 3/20]

 

片上平二郎/教員。批評家養成ギブス。批評同人誌knocksメンバー。

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