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映画美学校アクターズ・コース ブログ

映画美学校アクターズ・コースの公式ブログです。映画・演劇を横断し活躍する「俳優養成講座 」 2016年9月2日(金)開講決定!

『革命日記』で『笑っていいとも!』

3月21日(木)

 

小竹向原にある「アトリエ春風舎」。

そこはマンションの地下で、その周囲は実にフツーの静かな住宅街である。

「春風」という名前にピッタリな時期、その字を見ただけで爽やかな気持ちになる。

といった、そんな少し不思議な場所で、アクターズ・コース初等科修了公演の『革命日記』のゲネプロを観て来た。明日から三日間、計5回の本公演が行われる。

 

僕は今回までに2度、この公演の稽古(場所は渋谷の映画美学校)にお邪魔している。

そのときには、振り返ってみると主に意識が松井周さんの演出に向かってしまったのだが、これで都合3度目となる芝居を観て考えたのは、役者さんたちの変化についてだった。

 

僕が前回観た約1週間前から、明らかに芝居が変わった。

ここで「成長」という言葉を遣わないのは、僕が演劇プロパーな人間ではないがための控えめな言葉であるという以上に、単純にその「変化」が下手とか上手いとかいう言葉で判断されるものではないからだ。(少なくとも、1週間で目に見えてわかるような変化を、第三者が「成長」と呼ぶのはナンセンスだと思う。)

 

ところで僕は普段、映画や映像作品について考えることが多い。

その中で考えることの半分くらいは「見た目の変化」ということだと言える。

普通の人よりは「見た目」について普段考えてると思う。

初めて稽古を観たとき一番気になったのは、一幕物で転換のない舞台となるこの部屋で、

客席に向けて正面に置いてあるソファと、テーブルを囲んでぐるっとばら撒かれているクッションだった。

 

ちなみに、よく「モノが目立つような芝居や映画は良くない」と言われる気がするが、そんなことはないと思う。意図に沿っていようがいまいが、僕は関係なく、モノが目立ってたって別に良いと思ってる。

というのも、それぐらい「いい味を出してる」ソファだなと思ったのだ。

中途半端な高さと奥行きが絶妙だった。

居心地の悪さを演出するのに最強な武器だと思った。

高さの割りに妙に奥行きが深いので、座る人はついついソファの前の方にちょこんと座りがちになる。

だが態度の大きい人間がそこにふんぞり返ると、今度はやたらにふてぶてしく見える。

 

舞台となるマスダとタカギ夫妻宅のリビングには、入れ替わり立ち代わり、本当に多くの人間がやってきて、そのソファやクッションに忙しく座ったり立ち上がったりを繰り返す。その様はまるで椅子取りゲームかフルーツバスケット、あるいは「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングみたいに毎度毎度違うゲストが正面のソファに座って喋って、去って行く。

 

正面のソファ。

そこに座る人間に、不可避的に一番注目が集まる。

実はこの1週間近くで感じた「見た目の変化」のポイントは、そのソファと役者さんたちが、どれだけ戯れることが出来るようになったかどうかではないか、と思っている。

 

若きリーダーといった風格のマスダは、股を開いて真ん中に堂々と座る。

調子のいい商社マンのヤマギワは、喋りに必死で落ち着きなくソファを前後に動き回る。

終盤で、夫妻の義理の弟タナカは、どう座っても居場所がないという感じが出ている。

ふてぶてしいやつ代表である幹部のササキは、どっかり後ろに重心を置き、背もたれに腕をかけ、ここぞという時だけ、前かがみになる。

タカギは、タチバナとの言い合いに至って、それまでしっかりともたれかけていた背を起こし、前のめりに激しく罵るようになる。

 

それら全てが前よりもずっと自然に見えた。

役者もソファも互いに存在感を増していた。

それはいくらかは松井さんの演出による部分もあるのだろうが、たぶん、「ソファを上手く使わなければいけない」とかとだけ思ってそうなったのではないはずだ。何回も繰り返してるうちに、動きがソファに馴染んでいったのだろうし、「見た目の変化」というのは、純粋に視覚的な変化だけを論じるものではない。音や声が聴覚を介して、視覚に影響を与えることもある。それにはいわゆる「空気が変わる」というようなことも関わってくるのだろう。少なくとも言えるのは、そういった変化を作り出すのは、当の役者さんたちのあらゆる微細な仕草や身振り手振り口振りの積み重ねであり、それぞれの演技の反響が視覚の変化を生成するということだ。

 

 

さて、少し突飛だけど微妙に関連のある話を、もう一つだけしておしまいにしたいと思う。

 

このように、「見た目」ということばかり考えていると、この演劇そのものが、なにか映画のスクリーンでも観てるかのように思えてくる。しかし実際には、そこにスクリーンはなく、目の前に実際にその人物たちがいて、その演技をしているだけだ。

ということは、観客と役者さん、現実と虚構の境界というのは、映画と比べ実に曖昧になってくる。僕らが観ている役者さんは、同時に向こうからこちらを見つめ返すことも可能である。

 

我が家でもそうなのだが、通常のリビングには、大抵テレビが置いてある。それは往々にして、ソファの反対側に置いてある。ふと気付くと、僕ら観客はひょっとしてテレビの画面に収まっていて、逆にソファに座ってる彼らから覗かれているのではないかというような気になってくる。

「革命」というのは、雑に言うと下の人間が上の人間をひっくり返すようなことだが、それは言い換えれば「役の交換」とでも言うべきようなことなのだ。

 

 

 

 

原田真志 : 批評家養成ギブス3期生。映画や映像作品についてあれこれ。

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