映画美学校アクターズ・コース ブログ

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平田オリザと松井周について

今回、稽古場を見学していて「新鮮さを失わないように」「もっと周囲を利用して」という松井周の言葉を繰り返し耳にした。それはつまり、稽古は周囲への反応の調整としてあるということなのだろう。もちろん、より具体的なダメ出し(例えば「もう少し早くセリフ入って」のような)もいくつもされるわけだが、それらは全て固定的な指示としてではなく、言うなれば反応の例示としてあったのではないだろうか。役者は松井の言葉を受け、自らの反応を調整していく。「新鮮さを失わないように」というのは単に気の持ち様を言う言葉ではなく、きちんと周囲に反応することを改めて指示する言葉なのだ。このことに改めて気づいたとき、なぜ青年団の俳優出身の松井から『自慢の息子』や『女王の器』のような作品が生まれてきたのか、つまり、平田オリザから松井へと何が受け継がれたのかがはっきりとわかったように思えた。

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サンプル/松井の作品の特徴は「変態」の一言に集約することができる。それも二重に変態である。性的な意味での変態とmetamorphoseの意味での変態。サンプル/松井の作品に性的なモチーフが頻出すること、そしてそれらがしばしば一般的な規範からは逸脱した異常性愛の形をとることは改めて指摘することもないだろう。一方、変身のモチーフについては多少の説明が必要かもしれない。サンプルの作品ではしばしば人間が人間でないものに、あるいは無生物が生物に変容する様が描かれる。『自慢の息子』のラストでは登場人物たちが人形と化し、『女王の器』のラストでは逆に舞台装置が蠢き出す。そこでは人間/非人間の境界は容易に乗り越え可能であり、人間とそれ以外のものが同等の重みを持ったものとして存在している。このような存在の哲学は松井自身の言葉としてもしばしば表明されている。例えば2005年に発行されたユリイカ「この小劇場を観よ!」に松井は「ポスト「静かな演劇」の可能性」と題された論考を寄せているのだが、その中で自らの役者としての欲望を「いっそのこと舞台上においてその風景に溶け込みたい。机や椅子や動物や植物や石やその他のセットと同列で並んでいたい」という言葉で語っている。音響・照明・美術などのスタッフが創作の最初期の段階から参加し、意見を交換し合い、プロセスを共有するというサンプルの劇団としてのスタイルもまた、松井のこのような志向を反映したものであると見なすことができる。結果としてサンプルの舞台では音や光、あるいは事物が際立った存在感を獲得することになる。そして異常性愛的なモチーフもまた、同じ哲学に基づくものとして解釈できる。男も女も動物もモノも等価値なものとしてあるサンプル・ワールドにおいて、「普通の」男女間の恋愛と近親相姦的な愛/動物への愛情/モノへの執着との間に差異はないのである(その意味で、ユリイカ「この小劇場を観よ!2013」において松井がロロの紹介文を執筆しているのは至極当然であると言えよう。ロロは人間とそうでないものとの間での恋愛を繰り返し描いてきた。サンプルとロロは実のところ非常に近い興味あるいは志向を持っている)。

さて、しかし実は先ほど引用した松井の言葉はサンプルについて述べたものではない。2005年にはまだサンプルという劇団は存在していないのだから。先ほどの言葉は松井が「静かな演劇」について説明する中で、平田オリザの現代口語演劇の方法論を学んできた俳優としての自分のスタンスを語ったものである。続けて松井は平田の『演技と演出』から言葉を引いており、その引用は「私たちは、主体的に喋っていると同時に、環境によって喋らされているのです」という言葉で締めくくられている。人間は常にある環境、つまりは周囲の事物や人間との関係の中に置かれている。この認識が「人間は環境の中で相互に作用し合う要素の一つでしかない」と展開したとき、サンプルの作品群が生まれたのではないか。実際、松井のスタンスは驚くほど一貫している。先述の「俳優として望むこと」がそのまま「劇団でやりたいこと」としてあるのだ。サンプルの公式サイトなどで公開されている「私がサンプルでやりたいこと」と題された文章を引用しよう。

人間を疑うこと、これが出発点でした。
人間には統一された「自我」などなく、あるとしてもそれは多様でころころ変わるような一時的なものではないかという疑いです。
言語活動を行う「自我」のない動物として人間を捉えたいと考えて作品を作ろうと思いました。
つまり私たち人間は能動的に何かを選択し行動しているわけではなく受動的に何かを選択させられて動かされているという状態を演技の基本として作品を作るのです。
俳優と同じ空間にある全ての物(テーブル、イス、人間、エアコン、棚、観客等)が俳優を誘惑します。また、俳優の外側だけでなく、俳優自身の記憶に誘惑されることもあるでしょう。
私は受動的で信用ならない人間を肯定するために作品を作っています。

松井の俳優としてのスタンスがそのまま劇団におけるスタンスへと結実していることが読み取れるだろう。

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一週間ぶりに稽古場にお邪魔して、役者たちの先週からの化けっぷりに驚いた。もちろん、一週間も稽古をしたのだから進歩があるに決まっているのだが、直観的には小屋入りして環境が変わったことも大きいのではないかと感じた。役者もまた、当然のことながら周囲の環境から影響を受ける。地下1階にあるアトリエ春風舎は秘密基地めいていて、アジトで会合を開く『革命日記』の登場人物たちが役者たちの姿に重なって感じられた。『革命日記』の登場人物たちは次々と現れる予想外の訪問客に翻弄され、互いの微妙な思惑によって様々な姿を見せるわけだが、アクターズ・コース初等科を修了しようとしている役者たちは多くの講師・スタッフに囲まれ、役者同士で影響を与えあい変化していく。そして彼らを取り囲む環境の最後の1ピースとなるのは観客である。最後のピースが揃ったとき、作品はどのような反応を見せるだろうか。

 

山崎健太 批評家養成ギブス、演劇研究(早稲田大学文学研究科表象・メディア論コース) 劇評サイトワンダーランド、Blog Camp in F/Tなどで劇評を執筆 twitter: @yamakenta, http://yamakenta.hatenablog.com/

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