映画美学校アクターズ・コース ブログ

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―『革命日記』PENETRAクロスレビュー3

「革命」の日記であるはずのこの作品を見た人の多くは、実際のところ、この先に「革命」があるなどとはとても思えないのではないだろうか。世界はさまざまな価値観の並列とその軋轢によって出来上がっている。この軋轢をなし崩し的にないものであるかのごとく扱ってしまう「でも仕方がない」という言葉はもっとも反革命的なものの1つである。「仕方ない」という言葉によってのみかろうじて前に進んでいくことができる、この作品の中で描かれた時空間は、このままではとてもではないが「革命」にたどりつくようなものではない。ならば、この「革命日記」の中での「革命」の可能性はどこにありえるのだろうか。

 1つの空間の中に幾人かの他人が存在し、そして、そこから派生するいくつかの関係が存在する。そもそも、1人の人間の中にだって分裂した部分があるわけだから、ある空間の中には無数の世界が存在している。だから、空間はいつだってからまりが生じてしまい、時間はしばしば停滞してしまう。このからまりから脱する方法の1つは先ほど見た「仕方ない」という反革命的な呪文だ。からまりなんてない、みんなでそんなふりをすれば、それはそれで時間は反革命的に前に進むことができる。「革命!」という合い言葉だって、時にはそんななし崩しを進行させる反革命的な呪文のようなものになってしまう。

 だが、もう1つ、この演劇の中では、関係のからまりを解除する音が存在している。それは「ピンポン!」という無機質なチャイムの音だ。この空間の外から他者がやってくる。そのことによって、新しい関係が生じる。新しい関係が生じるということは、新しいからまりが生じることでもある。だが、そのからまりは、今まであったからまりを一度ときほぐしてくれる。からまりによってからまりは一旦は解除される。「仕方ない」とは似たような、だけど、ちょっとした違いを持った前への進み方だ。

 別にこれが即「革命」的なことではありえはしない。外からの何者かが突然現れるということは決して、自由なことではない。むしろ不自由な経験だ。だけど、内側でからみあっていた不自由さが、外から来た何者かの出現によって生み出された不自由さによって解除されるということは、少なくとも、なし崩しの反革命性とは違う何某かの要素を持っているようにも思う。そこには滑稽さという、いまある現実を解きほぐすものがあるわけだし。「ピンポン」と不確定なものの鐘がなる。これは「革命」的なことなのか、非「革命」的なことなのか。

 ただ1つだけ言えることは、アクターズコースという場所で、自分と役柄の間の軋轢をなし崩し的にごまかさず、そして、その軋轢が生む偶然性と徹底して向かい合う時間を長く過ごした演者のみなさんの中に「革命」はあっただろうということだ。「物語」の中に「革命」はなかなか訪れなくても、あの場所の中には無数の「革命」が訪れていたはずだ。

  

(このレビューは4/28(日)に開催される文学フリマに合わせて発行予定の批評同人誌PENETRAへ掲載されます。twitter: @gibs3penetra)

片上平二郎/教員。批評家養成ギブス。批評同人誌knocksメンバー。