映画美学校アクターズ・コース ブログ

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映画美学校アクターズ・コースの公式ブログです。アクターズ・コース俳優養成講座2023、9/1(金)開講決定!

 ―「 actor」 ―  『革命日記』PENETRAクロスレビュー4

 公演終了後、打ち上げがあるということで、ほとんど部外者のくせに参加させてもらいました。最近そういう「飛び込む」機会のあまりない、寂しい人間だったのだけど、行くことにした。見た目から何からてんでバラバラそうな人たちが集まって、一つの芝居を作り上げていたから。僕はそういう空気が好きなのです。

 とは言うものの、舞台のバラしの時点で手伝おうかどうしようか迷ってるうちに、「やべ、入りそびれた」となり、結局打ち上げでも言うほど喋れず。でも人が喋ってるのはたくさん聞こえてきました。「これから」のことを熱心に話してる声も聞こえてきて、素直に「いいなあ」とか、羨ましいというか、そんな気持ちになりました。

 

・アクター(actor)。

 こういう言い方はややクリシェかも知れないですが、このアクターという言葉は俳優とか役者という意味だけではなく、「主体」という意味があります。これは社会学政治学において、行為を行う最小単位とか、社会を構成する基本単位のこと、という説明が一応出来る。

 でもこれはあくまでそういう学問上の言葉なんで、やはり演劇の中ではアクターは役者さんのことです。で、ちょっとずらして言うと、よく「主体性を持って行動しなさい」とかと言いますが、「主体性がある」というとき、これは英語で「independent(インディペンデント)」で、逆に「主体性がない」ことを「faceless(フェイスレス)」と言います。

 

・泳ぐ

 稽古で「演技しながら泳ぐ感覚をつかんで」ということを、演出の松井さんはおっしゃってたみたいなのですが、「泳ぐ」というのは、そのことだけよくよく考えるととても不思議な感覚です。流動的で不安定な水の中、しっかり自分の腕と足で水をかいて、時には流れに逆らいながら自分の思った方向に進んで行く。人間は水棲動物ではないですから、放っておけば死にます。呼吸のため水面に顔を出したり、潜ったりもして、上下左右の感覚が狂うようなこともあるかも知れない。そのような特殊な障害のある環境の中で、でも「泳ぐんだ!」って変に意識しなくても半ば本能的に、「泳ぐ」。

 これは松井さんの演出方法から自然と引き出される言葉だと思います。その場、その都度のアクションとリアクションを大切にする演出が、一つの基本方針として採用されています。1回限りのことに対して丁寧に、でも不自然にならないように反応していくことが求められる。そのとき投げられる周りの演技、環境や障害に馴染みつつ、演技を打ち返して泳いで行く。それはアクションが先かリアクションが先かという永遠に答えの出ない禅問答を反芻しながら、おそらくもう一つ違う段階に向かって行くような感覚かと思います。

 

・コスプレ

 松井さんはまた、「役になりきる、というよりは、コスプレ」というような表現もします。これもどこかやはり「泳ぐ」に近い感覚がある。コスプレとは、あくまでただ衣装を着ている状態で、ある架空のキャラクターに同化しつつも、それをどこか別の視点から自分で自分を観ているようなところがあるのだと思います。

 つまり、「泳ぐ」にしても「コスプレ」にしても、やや受動的な部分があるということです。でも完全にではなく、それを「なんとなく」制御している自分がきちんといる。それは「フェイスレス(顔がない、匿名の)」な感じでありながら、登場人物の役柄にすべてを明け渡すのではなく、コスプレとすることで「インディペンデント(独立した)」な自分をどこかに確保している、という状態と言えるでしょう。

 このように極度に抽象的な表現は、とても実践的側面の強い役者さんたちにとっては、何度も何度もチャレンジしていく中で、自分で掴むしかない、苦行のようなことだと思います。それでも松井さんはそこへきちんと集団をオペレートしていく手腕を持っているのだなと、稽古を観ながら感じ、またそれに正解じゃなくともその場で素早く応える術を、役者さんたちが持っていたことに密かに感動していたのでした。

 

・100回のうち1回の革命

 危険な前線での工作を任される桜井幸彦役を演じた前原瑞樹さんと、打ち上げで少し話す機会がありました。で、彼にずばり「泳ぐ、とかって言われてそんなんわかるの?」と聞いてみました。彼曰く、「一回わかったときがあって、これか!って思ったんだけど、次やったら違うって言われてすごい悔しかった」と。それは想像するだけで確かに悔しい。だからきっとこれは正解があるわけではなく、毎回違うものなのです。実際、僕の感想としては本当に回を追うごとに芝居が変化していて、それがすごく面白かった。

 高橋隆大さんが演じた小坂の台詞に「革命なんて、100回やって1回成功すれば良いって類のもんなんだよ。」というものがあります。この『革命日記』には平田オリザさんの「演劇論・演劇観」のようなものが練り込まれているらしく、この後に続く「2カ所同時に起これば、それはもう戦争じゃない。」という言葉は、「同時多発会話」から「戦争と日常→演劇と現実の交錯」のようなところまで読み込むこともできます。そして、演劇は「100回やって1回成功すれば良い」というものではないのでしょう。今回の公演で5回公演が行われるように、複数回または再演といった形で、演劇は何度も上演され、そのために何回も何回も稽古を積み重ねます。(逆に「100回やって1回成功すれば良い」演技が求められるのは映画ですね。)

 

 坂野アンナさんの演じた立花由希子は、終始怒っています。それは恋人の桜井が前線に立つことに対する不安から、なのかは本当のところわからないままですが、最終的にこの晩の革命組織の会議で当座の「役を降りる」意思表示をし、部屋を出て行ってしまいます。彼女はまさに観客と同じ方向を向き、つまり観客に背を向けた状態で「フェイスレス」を体現しながら、この芝居のなかで自分の立場を明確にし、「インディペンデント」な存在へと変容して行きます。

 これからアクターズ・コースを出て行ったあとも、きっと多くの人がまた新たな集団に加わったり出て行ったりしながら、いくつもの役を演じることを続けるのでしょう。役を降りて、またもう一度別の役の仮面を被り、コスプレをすること。そうして何度も何度も繰り返し続けていくなかで、本当にインディペンデントな役者さんになって行くのだと思います。それを人は「革命」と呼んだりもするのです。

 

(このレビューは4/28(日)に開催される文学フリマに合わせて発行予定の批評同人誌PENETRAへ掲載されます。twitter: @gibs3penetra)

 

原田真志/批評家養成ギブス。PENETRA同人。映像についていろいろ。