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レポート-1『コトバ・プレイ 1~批評と演劇の関係は何を生み出すか?』

先日行なわれた『コトバ・プレイ 1~批評と演劇の関係は何を生み出すか?』(2014年2月23日(日)15時~@映画美学校試写室)のレポートをお届けします。このイベントは直前に、映画美学校アクターズ・コース初等科第2期修了公演『革命日記』の記録映像の上映を行ってから、アフタートークのような形で開催されました。(文・原田真志)

●登壇者

松井周:劇作家・演出家

山内健司:俳優

田上豊:劇作家・演出家(外部)

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山﨑健太(司会):批評家

演劇研究・批評 早稲田大学文学研究科表象・メディア論コース博士後期課程 映画美学校批評家養成ギブス1期修了生。

綾門優季:劇作家・演出家・批評家

1991年生まれ。劇作家・演出家・Cui?主宰。第1回せんだい短編戯曲賞大賞受賞。批評家養成ギブス2期修了生。

港真南:観客・批評家

書き手。歌い手。ランドスケープ・環境民俗・女子サブカル・アイドル好き。緊張しい。批評家養成ギブス2期修了生。

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山﨑:ではまずこのトークイベントについて、コンセプトなど松井さんのほうから説明をいただきたいと思います。

松井:この企画は、アクターズ・コースと批評家養成ギブスとコラボで何か出来ないか、ということで企画されました。タイトルなど含めた全体のアイディアは、僕が最近こだわっている言葉で「プレイ」というものがあって、「プレイ」ということを言ってみることで、一つちょっと「枷」を作る。そういうことを考えながら「コトバ・プレイ」というタイトルをつけました。

意味としては三つくらいありまして、まずは演劇と批評、その関係ということ。それから、作品に対して言葉を着せたり、あるいは逆に作品についてしまったイメージ、手垢にまみれてしまった言葉を脱がす、別の見方で作品を提示する、作品に言葉を着せる/脱がすということ。そして更に、ここに集まった皆さんそれぞれのポジション、劇作家・演出家・俳優・批評家・批評家の卵・観客さまざまなポジション、そういう「枷」をつけて「ロールプレイ」する、というのをやってみたいと思ってこのように付けてみました。

山﨑:ありがとうございます。それでは早速、各自自己紹介、企画に沿って立ち位置、ポジションなど含めて軽く、順番に回して行きたいと思います。

山内:俳優の山内健司と申します。アクターズ・コースの講師です。俳優としては劇団青年団というところに所属しております。毎日演技のことたくさん考える現場にいるんですけど、自分にとってどういう言葉があったら幸せなのかなあ、ということを劇場やこの映画美学校で日夜考えております。コラボ自体の発案者の一人です。

田上:劇団「田上パル」の主宰をやっています田上です。さきほど観ていただいたのは、昨年のアクターズ・コース第二期の修了公演ですが、僕は第三期の作・演出をやってます。(紹介の紙に「外部演出家」の表記)この「外部」というのは、この修了公演のために外部から来たという意味です。

綾門:批評家養成ギブス第2期生の綾門優季と申します。僕だけ肩書きちょっと多くなっちゃってますけど。普段は劇作家という役割で人前に出ることが多いです。来月こまばアゴラ劇場で行われる平田オリザさん作・演出の『S高原から』という作品の演出助手を現在やっていて、なので僕は平田オリザさんの『革命日記』と松井周さんの『革命日記』の両方を観ていることもあり、内側の視点からその違いを語れたらと思います。

港:批評家養成ギブス第2期生の港真南です。私、実は演劇もド素人で、普段はAKBとかアイドルがすごく大好きで、そういう自分が大好きなものの大好きなところをピックアップして、好きなように語るっていうことばかりやっているので、果たしてこれは批評なのかと。そう思ったので、自分の肩書きに「観客」っていうのを前面に押し出して入れてみたので、そういった部分からお話できれば良いかなと思います。

松井:僕はさきほど上映した『革命日記』の演出を担当しました、松井周です。普段は自分の劇団「サンプル」というのを持っていて、そこでは劇作家として作品を書いたりもしています。ですが今日は自分が演出した作品の上映の後、ということなので今日は演出家という肩書きをメインにしていろいろ話せればなと思います。

山﨑:山﨑健太と申します。第一期批評家養成ギブス修了生で、今日は司会の役割なんですけども、立場としては批評家ということでお話もさせていただきます。ご覧のように登壇者には各自バラバラのポジションがあって、またちょっとずつ被っていたりするところもあって、それぞれの角度からどういうコトバを与えることができるのか、あるいは与えることを必要とされているのか、そういう話をしていきたいと思っています。

とは言ってもいきなりそんな抽象的な話はできないと思うので、まずは先ほどご覧いただいた『革命日記』の具体的な話から。お配りした「ペネトラ」(批評家養成ギブス第1期有志による同人誌)の冊子に、昨年の『革命日記』の修了公演のクロスレビューが掲載されています。つまりこれが昨年の修了公演に与えられた言葉、ということになるわけですが、この中で僕が批評家として何を発したかったか、ということを例として挙げさせていただくと、この企画はアクターズ・コースと批評家養成ギブスの企画ですので、俳優というところに興味がある。ところが俳優に関して批評するというのはちょっと難しいんです。なぜ難しいかというと、主観的な言葉になりがちであるということ。私たちは俳優に関して客観的に語る共通言語を持っていないのではないか、ということですね。自分も含め、このクロスレビューでは俳優についての言葉が結果的に少なくなっていると思います。ですので、今日の「コトバ・プレイ」もそうですけど、俳優に関して語る言葉というのがどういう風にありえるのか、みたいなことを考えて行けたらなと思っています。

と、いうような形でここにいらっしゃるそれぞれのポジションからの言葉を、まずは『革命日記』を足がかりに順番に伺って行こうかなと思います。じゃあまずは批評家勢から。

 

綾門:僕は『革命日記』を平田オリザさん演出の青年団本公演と、松井さん演出のこの修了公演、両方観て考えたことについて話そうと思います。

この『革命日記』という戯曲は、役・俳優の「胡散臭さ」の要素をすごく引き出す戯曲だなという印象がまず一番強くて。例えば町内会の二人、後から来る副会長の福本さんという役がありますが、これがオリザさんの演出と松井さんの演出でかなり違っているんですね。あの役の、主人公に迫ってくるゴリ押しの仕方、声のトーンで町内会の存在感・空気感が全然変わってくるというのが一つ。またほかの部分では、あの「セックスしたいだけでしょ」と言われて立花(坂野アンナ)が怒るシーン。彼女が観客に背を向けた状態で怒るところは、マジ切れなのか静かに怒ってるかでその場の空気はだいぶ印象が変わるんです。こういう風に役に誰を当ててどういう演出をするかで、作品の見え方、その場の空気の流れ自体が変容する、そういう戯曲なのだと思っています。

そしてその演出に関して目を向けると、オリザさんと松井さん二人の演出の最大の違いは、オリザさんはある一線を絶対に越えない、それが上品というのかわからないですが、松井さんのほうがずっと胡散臭いというか…。

松井:それオリザさんが上品ってことは俺のが下品ってこと?(笑)覚えとこ。

綾門:;いやけなしてるわけじゃなくて!(笑)胡散臭くて泥臭くて、生々しさがあるというか。オリザさんは喧嘩の演出するにしても、それぞれにモラルがあるように思うんですけど、松井さんの演出だとそのモラルを破壊している人がいるなあという印象で。その違いがこの作品において、後半の印象をだいぶ変えているところだと思います。

 

港:ここにいる皆さんやはり演出家の目線で観たりするのかなと思うんですけど、そう考えると私はほんとに観客目線だなと思います。私が作品を観るときに注目するのは、ストーリーと人だなあと。感情移入して観るのが観客だと思うんです。なのでこの『革命日記』では、すごく登場人物が多いのと、登場人物も場面の組み合わせと雰囲気によってどんどん心に持っているものが変わっていて、一人一人が切子硝子みたいにいろんな切られ方/見え方をするので、それにいちいち対応していたらすごくエネルギーを使った、っていうのが感想で。これが観客としての感想なんですけど、これをもし他の誰かに伝えようと思ったら、もうちょっとコミュニケーション出来るようにしないといけないなと思うのですが、そう考えたとしてもやっぱり自分の持っている問題とかが作品を観るときに投影されてしまうんですよね。私の場合、自分がつい主観的に語ってしまうなっていうのと、それを客観的に語らなきゃ、って思うのと、その葛藤が作品にも見えてしまっていて。その人が思っていることは別に間違いじゃないのに、その場の空気感だとダメだったり、その「モラル」と関係するのかも知れないですけど、なんだろう、ちょっと言いたいことがわからなくなって来ました。(笑)批評って、自分が「こうだよな」ってグッと来て思っていることを、人に伝えようとすると批評になると思うんですね。

山﨑:それはつまり感想と批評の切り分け、という問題を含んでいるということなのかな。

港:そうですね、だから私はすごく立花に共感してるんですよ。(笑)

山﨑:(笑)

港:彼女には「うん、そうだよね」って思う。いろいろ分けられないんです。

山﨑:自分が感情的に思ったことと、論理的に語ろうとすることが上手く切り分けたりすり合わせたりすることが難しいということですね。それはほんとに批評と感想の違いで、問題になりがちな部分だと思うんですけど。その辺は批評される側としてはどうですか?もちろん何にせよ言葉は発せられないよりは発せられたほうが嬉しいとは思うんですけども。

 

松井:はい、いま自分が演出した作品を観て、それに対して言葉を与えられることはまず嬉しいですよね。何かしら化学変化のようなものが、観た人に起こったということ、それが嬉しいし、もちろんそこで誉められればもっと嬉しいですよね。でもけなされた場合でも、例えばさっきの下品って言葉だってそれは逆に誉め言葉として聴けるし、実際そのオリザさんとの違いがわかることで、例えば次の作品に対して向き合い方・姿勢が変わる、ようなことが僕の中で起きる。

いま改めて自分の作品を観て、よく言われるように、やはり作品は自分の子供みたいなものだなと思ったんですよね。それに対して言葉が与えられたとき自分がポジティブに受け取れるかどうかと言うのは、それが子供に対する「躾」と思えるかどうかだなと思います。つまりそれが未来へ向かっての期待が込められているのか、それともただ単に排除のための言葉なのか、そこは良い悪いは関係なくて、未来が含まれているかいないかっていうことだなと思いました。

山﨑:批評と感想の区別、という点についてはどうですか?

松井:うーん、批評と感想の区別…。もし僕が批評を書くとしたら、観たものをもう一回再構成して、作品を作ってるように書くと思うんですね。僕は感想って、思ったことをただ並べて行くことだと思うんですけど、それを「作品」にするにはもうちょっと思考の誘導みたいなこと、自分でも再構成させて、しかも読む側にも、観たものと別の物語を見せる、みたいなことが僕の中での批評ですかね。もう一つの物語というか。

山﨑:そういったことを提供できるのが批評家だと。いまは演出家の立場から伺ったんですけども、俳優の立場からですとどうでしょうか?例えば先ほど綾門くんが町内会の話や「下品」ということについて話してましたけど、それって観てないと伝わらない言葉なのじゃないかと僕は思ってしまうんですね。観てる人にはとても腑に落ちる言葉なのかも知れないですけど、観てない人にはどうなのだろうか、という気持ちもあります。

綾門:あの、僕「下品」とは一言も言ってないです。(笑)

 

山﨑:あ、そうか。(笑)そういう空気みたいなものは、結局は俳優が現場で行っていることによって最終的には担われているわけですよね。なかなか言葉にしにくい部分だと思います。そういった部分に批評家から言葉を投げられることについてはどうですか?

山内:あらゆる角度と局面があって、本当に捕まえにくいですよね。ほんとにほんとに下世話なことを言えば、誉められれば嬉しいし、けなされれば頭に来る。それはもちろんあるんだけども、それだけじゃなくて。ちょっとずらして言うと、自分が映画とか演劇観たときに、一回でわかるわけがないと思うんですよね。それは演じてる側からすれば傲慢かもしれないです、「一回観ただけで何がわかる」ということですから。でもそれも下世話なレベルですね。

躾か排除か、っていうのは本当に面白いですね。感想と批評っていうことで言うと、僕が目にする範囲で考えると、ネットも書籍も雑誌に掲載されてるレビューや論文含めてあんまり区別がつかなくて、言葉の重さと軽さということしか無いような気がしてます。

アカデミックな文章については、あの世界はちょっとでも瑕疵があると、全部ひっくり返されるわけじゃないですか。あの緊張感みたいなものは痺れますよね、たしかに。でもそこでものすごいオーバーディフェンスになってるものとかは、つまらないです。そしてそういう人が感想言ってきたときの圧力ってありますね。  

それから少し離れて、『革命日記』を観てて俳優の立場から言うならば、全然違うこと考えてて、ずっとネトウヨとかヘイトスピーチやってる人たちのこと考えてたんです。ここ渋谷ですけど、NHKの前とかよくいますよね。僕は許されることなら彼らの顔を間近でジロジロ観てたいなあ、というのが欲望としてあります。そして思うんですけども、さて俳優はいったいこれからどこに行きたいんだろうな、ってことをずっと考えてて。ちょっと昔であれば、活動家の演技って言ったらとても戯画的なものが多かった。いまでも戯画的にしか演じられないものって、結構ありますよね。そういう戯画的なもの、人物のプレゼンテーション、だいたいこういう人ですっていう紹介、じゃなくて、その人自身の重さであるとか、微細な感じ、その人自身がゴロっといる感じみたいなこと。そこに俳優は向かって行かないと。プレゼンじゃダメなんだろうなっていうことをずっと感じてて。

もちろん『革命日記』を観てるときは自分が教えてたアクターズの2期の人たちなので、それぞれ良かった点悪かった点、ここが上手くなった良くなったな、とかいろいろ思うわけですけども、僕が思う人間の存在に届くか届かないかっていうのは、結局は僕の価値基準なので、そこに届く言葉が絶対に欲しいかって言われると、そうでもなくて。どちらかというと、観終わった後にどういうお喋りをしてるのかな、どういう充実したお喋りしてるのかなとか、そっちの方に関心がありますね。自分の職業的な現場の言葉と、劇場で交わされる言葉っていうのは、自分の中では直接にはリンクしない、という感じがしてます。

山﨑:俳優としては、文章の中で俳優に触れてなくても特に何も思ったりはしないですか?

山内:いや、だからそこは下世話ではあるんですよ。(笑)

山﨑:(笑)個人的な感情としてはあるんだけれども、職業の俳優としての立場としては、ということですね。

山内:励まされることはありますよ、本当に、心から励まされることありますよ。自分が「あー、ダメだ!」って思ってるときに、ちょっとでも触れるようなこと。でもそれって、こっちのコンテクストと向こうのコンテクストが誤解でぶつかってるだけだと思うんですけど。それでも、これで本当に明日からがんばろうって思うことはありますから。

山﨑:いま誤解と誤解がぶつかるみたいな話でしたけど、それって劇作家と観客の間でのレベルよりも、俳優と観客との間でのほうが起きやすいかと思うのですが。

山内:舞台上でそういう構えみたいなものが出ちゃうと、非常に硬いものになっちゃいますよね。上映を観てて思ったのは、やっぱり演技、自分がやるべきことに没入してる瞬間がかなり多い作品だと思うんです。その瞬間になると、見られてるっていうディフェンスの部分が一応取り払われるんですね。まあ、要はそんなに気にならない。

(2に続きます)

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