映画美学校アクターズ・コース ブログ

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コトバ・プレイ2に寄せて

演劇と批評はどのような関係を結ぶことができるのか。今週末に迫った映画美学校アクターズ・コース第3回公演『美学』に向けて、また3月29日18時の回の上演後に開催されるコトバ・プレイ2に向けて、まずは2月23日のコトバ・プレイで出た話題を自分なりに振り返り論点を整理してみたい。
 
批評は「誰が」「誰に」「何を」「どのように」語るのか。「誰が」は基本的には「批評をする者が」ということになるだろうが、「批評をする者」の立ち位置も無数にある。批評家はどのようなスタンスに立つのか。批評家と批評対象やその作者との距離感は批評の信頼度にも関わってくるだろう。一方で、内部に深く関わったからこそ発することのできる言葉というのももちろんある。たとえば俳優の仕事について俳優自身が言葉を発することにはまだまだ可能性が秘められているのではないだろうか。
 
演劇の批評は「誰に」読まれることを想定しているのか。作り手か観客か。想定される「作り手」とは誰か。劇作家か演出家か俳優かスタッフか。観客を想定するならばそれはすでに作品を見た観客なのかそれともまだ見ていない観客なのか。想定される読者によって批評の形も変わってくることになるだろう
 
批評は演劇の「何を」語るのか。作品論なのか作家論なのか、それとも演劇状況についての批評なのか。戯曲の構造か演出家の特性か。俳優や照明・舞台美術についてはいかに語ることができるのか。そして批評の言葉は対象を「どのように」語るのか。比喩を駆使して作品の「感じ」を再現することを目指すのか、事実の積み重ねから作品の新たな側面を提示してみせるのか。学術用語を用いて格調高く論じるのか、それとも平易な言葉で語るのか。
言うまでもなくこれらの問いは互いに有機的に結びついていて切り分けることのできるものではない。「誰が」「誰に」「何を」「どのように」語るのかは「何のために」語るのかによって変わってくるからだ。
 
さて、では自分はアクターズ・コースの公演に対し、どのような言葉を発することができるだろうか。アクターズ・コースの公演に関わるからには、俳優について語りたいという欲望が自分にはある。しかし同時にその欲望をかなり強く疑ってもいるのだ。俳優の仕事は(いかに)語ることができるのか。そもそも俳優について語ることは(なぜ)必要なのか。
 
自分が「何のために」演劇の批評を書くのかを考えると、「観客のガイドのために」ということになる(だからそれは基本的に作品論や作家論の形をとる)。作品を見た観客に対してはより作品世界を楽しむためのガイドを、作品をまだ見ていない観客に対しては作品世界への第一歩のためのガイドを提示するような批評。いずれにせよこのとき批評は未来に向けて発せられている。そしてここで言う未来というのは多くの場合、批評対象となる作品ではなく、次回以降の作品を指す。新聞劇評を除けば、批評が出る頃には演劇の公演は終わってしまっていることが多いからだ。
 
このようなスタンスに立つとき、俳優について語ることは果たして(なぜ)必要なのだろうか。必要だとして、それは(どのように)語ることができるものなのだろうか。俳優の仕事を「共有可能な形で」語ることが困難であることは言うまでもない。演技の巧拙は容易に判断可能なようにも思うが、その判断にさえ、見る者による差異は生じてしまう。このとき、「なぜ」巧いと言えるのかを客観的に説明することは可能なのだろうか。ある俳優の演技を見て涙するとき、その涙の理由を論理的に語ることはできるのだろうか。
 
否定的な言葉ばかりが並んでしまったようにも思うが、これらの問いは当然、自分の批評的なスタンスへの疑いとしてある。多くの演劇は俳優抜きでは成立しない。では演劇の批評は? 自分にとってアクターズ・コースに関わるということはこの問いに常に向き合うことでもあり、コトバ・プレイはそのための思考過程としてある。
 
次回コトバ・プレイ2は『美学』のアフタートークでもある。アクターズ・コースの公演を見た直後にどのような言葉が発せられ、その言葉はどのような機能を持つのか。是非とも劇場に足をお運びいただき、思考過程としてのコトバ・プレイに観客として/俳優として/批評家として参加していただければ幸いである。
 
山崎健太(批評家・批評家養成ギブス第1期)
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