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映画美学校アクターズ・コース ブログ

映画美学校アクターズ・コースの公式ブログです。映画・演劇を横断し活躍する「俳優養成講座 」 2016年9月2日(金)開講決定!

役柄とそれを演じる人間の関係について

 『美学』は漫画家養成塾に集った漫画家志望の若者たちが「早乙女式」と呼ばれる漫画創作メソッドを使い、さまざまな困難を乗り越えながら、共同作品をつくりあげるまでの物語です。そのため共同作品の漫画を、演劇内でどのように表現するかが作品の質を左右するでしょう。『美学』では演劇内の漫画作品を「身体表現」として提示しています。「早乙女式」によるペン入れは、漫画のあらすじを寸劇で演じ、それを鑑賞しながら雰囲気や身体、表情を高速でスケッチしていく手法をとっています。その設定により「共同作品」を演劇のなかの劇中劇として取り入れることを自然なこととしているのです。
 劇中漫画劇は、塾生たちが欽ちゃんの仮装大賞並の手際であらすじの寸劇を行います。それは「漫画表現」それ自体を再現する様々なギミックに溢れていました。登下校の場面、コンビニ前、夕飯時などを秒単位でめまぐるしくシーン変更することで、漫画のコマ割りのスピード感を表現したり、ジャンプ等の一瞬を切り取ったコマを、組体操のように人を持ち上げて表現したり、校舎のチャイム音、暴走族のバイク、セミの鳴き声、すべてを物まねで発することで、漫画擬音のコミカル感を表現したり。中でも、正座したおばあちゃんを2,3人でゆっくりと持ち上げていき、死んで天に昇っていくシーンは秀逸でした。
 この劇中漫画は、『美学』のなかの漫画家養成塾に集っている若者たちが制作しています。そして『美学』という演劇作品も、映画美学校アクターズコースに所属している若者たちが制作しています。『美学』のなかの若者たちと、『美学』をつくる若者たちは、まるで分身のように似た環境にあります。しかし『美学』のなかで「物語の登場人物」は「物語の創作者」の分身ではないと否定するシーンがあります。ストーリー担当の女性が「ヒロインと自分のイメージが離れてしまったため、物語を1からやり直したい」と申し出たとき、漫画養成塾の講師は「物語のヒロインはあなたの分身ではない」と伝えるのです。なぜ『美学』という作品は、俳優たちに分身のような状況の配役を用意しながら、「物語の制作者」が「物語の人物」の分身になる状況を否定したのでしょうか。

 俳優がインタビューで「難しい役どころでした」などと答えていることがよくありますね。おそらく、その役が何を考えて行動しているのかがなかなか理解できなかったのでしょう。その人は、役柄が何を考えて行動しているか理解してから演じていることが考えられます。このような役柄について徹底的なリサーチを行い、劇中で役柄に生じる感情や状況については、自身の経験や役柄がおかれた状況を擬似的に追体験する事によって、演技プランを練っていく方法を「メソッド演技法」と呼ぶそうです。

 それでは『美学』を演じたアクターズコースの人々はどうでしょうか。『美学』では共同制作の難しさが描かれていますが、そのことは共同で『美学』を制作しているアクターズコースの方も十分痛感しているはずです。つまり『美学』には全く別の人間になることが要求されるような「役作り」がなく、あらかじめ「メソッド演技」が行なうことのできるような設定となっていた、といえるのです。それを踏まえてもう一度あの問いに戻りましょう。なぜ漫画家養成塾の講師は「物語の登場人物」は「物語の創作者」の分身ではないと否定したのでしょうか。「分身ではない」は「分身である必要はない」と言い換えることができます。それは、共同制作という環境において「自分以外の世界が広がっていくこと」は肯定するべきことである、と物語内の若者たちに伝えると同時に、『美学』を制作するアクターズたちに「自分以外の人間を演じる」段階に進むべきだということを示唆しているのではないでしょうか。
※※※
 こちらは長い余談となりますが「役柄とそれを演じる人間の関係」について考えたとき『光の雨』という映画を思い出しました。なぜならそれは「物語に登場する若者と、それを演じる若者」の物語であるからです。ですが光の雨が『美学』と異なる点は、配役にまったく共感できないというシチュエーションが用意されていたところです。
 『光の雨』は「1970年代に革命を目指していた若者を1990年代の若手俳優たちが演じる映画」のメイキングフィルムを撮影する様子を描いた映画です。その劇中映画の「1970年代に革命を目指していた若者を1990年代の若手俳優たちが演じる」という構造は『美学』のそれと酷似しています。『光の雨』は『美学』のような状況をさらにメタ視点から捉えることによって、どのように演技を行うべきかという専門的なテーマを提示することに成功しています。劇中の「1970年代に革命を目指す若者の映画」は1970年代に革命を目指していた映画監督によって撮影が始まります。映画は、組織の結束を強化するための相互批判、総括がエスカレートし集団リンチへと発展してしまった実在の事件を描いています。革命を目指していた監督は、この映画によって、自分たちの世代が犯した事件を「総括」しようと考えていました。そして1990年代の若手俳優たちに対して「相互批判の精神」を理解させようとしたのです。「ただ殴るのではなく、なぜ殴るかを考えろ」といった監督の方針は、まさしく前出した「メソッド演技法」ということができます。ですが、1990年代の若手俳優たちは「理解することを拒否」※1するのです。その後監督は「映画のために消えます」という書置きを残して失踪します。そして今までメイキングフィルムを撮影していた1970年代と90年代の中間に位置する監督が撮影を任されます。劇中映画は無事完成し『光の雨』は終わります。1990年代の若手俳優たちが雪の中で完成を喜び合うラストシーンは、学生闘争が犯した事件を「総括」することができなかったことが暗に示されています。
 『光の雨』を見つめ直すと『美学』で伝えたかったことが浮き彫りになる気がします。『光の雨』は非当事者(自分と役柄が似ていない)であるゆえの再現不可能性を劇中映画撮影の様子を使って表現していますが、『美学』は非当事者(自分と役柄が似ていない)であるからこその、再現ではなく、表現の可能性を示唆しています。『光の雨』はメタ視点により物語内でそれが提示されていますが、『美学』では一見すると夢を追う若者たちの群像劇とみることができます。つまり今回の「コトバによって演劇の理解を深める」コトバプレイという試みは、『美学』におけるメタ視点の役割を担っているのだと感じました。
 
※1余談の余談になりますが、若手俳優のひとりを山本太郎が演じています。彼は「1970年代の革命を目指す若者」に対して拒否反応を示します。ですが今の彼は革命を目指している、とはいえませんがかなりアバンギャルドな存在です。あの1990年代の若手俳優が、パラレルワールドにいる「活動家にならなかった山本太郎」にみえてとても興味深いです。
 
 
本多克敏
昭和61年(1986年)12月17日、群馬県生まれ。東中野区在住。好きなうどんは焼うどん。今まで題材にしたテーマは「アダルトビデオとその物語の関係性」「ネット事件はなぜ笑い男と比較されるか」「立川談志の死を参考としたSNSにおける一人称の死の発信の考察」などです。文章執筆修行中です。なんでもやりますのでどうか使ってください( ་ ⍸ ་ ) メール:katsutoshi.honda@gmail.com
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