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【イベントレポート】「監督と俳優が語る演技のヒミツ」〜その1

先日おこなわれたイベントのレポートです。前半は、深田監督によるミニレクチャー「映画史における俳優の演技」です。ぜひご覧下さい。(導入は間に合わずレポなしです、あしからずご了承ください)

【2014年4月19日 14:00〜16:00 参加者:深田晃司、山内健司、兵藤公美、大竹直 レポート:中川ゆかり】

参考上映:『グレートワルツ』(1938年/ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)

深田:演劇出身の一流俳優がどんどん映画に出演していています。一方、ということでもう一つ参考作品を上映したいと思います。エリック・ロメール監督の『緑の光線』です。

参考上映:『緑の光線』(1972年/エリック・ロメール

深田:二つの映像を見ていただきました。どちらも面白い映画で、どちらがいいとか悪いということではなく、この二つの映画では「演技の質」が違うと感じます。

個人的な感想ではありますが、『グレートワルツ』は完成度が高いけど、「19世紀的な演技」、という印象です。一方、ロメールの映画では「現代的な演技」だと感じます。では、ここで何を違うと感じているのでしょうか。

深田:重要な差違は「無意識」の有無だと思います。「無意識」という概念は、20世紀最大の発見のひとつに数えられるでしょう。

 歴史学者のE.H.カーは、フロイトの重要性をこう書いています。「第一に、人々が自分の行動の動機だと言ったり信じたりしているものによって実際に彼らの行動を十分に説明することが出来る、(中略)、こういう古い幻想にとどめを刺したのがフロイトなのです」。

 例えば、歴史家。正確な歴史を叙述しようとしていた、あるいはしている、とされていた歴史家自身もまた、個人の生きてきた環境や背景の影響を受けているという事に気付いたのです。これは、人間一般に敷衍しても同じことが言えると思います。

 17世紀のデカルトによる「我思う故に我あり」という言葉はあまりに有名ですが、19世紀以前の人間観としてごく単純化してですが言えるであろうことは、自分の意識や考え、行動は、すべて自分によってコントロールできている、という考え方です。逆に、コントロールできなくなった人間は悪魔や病気、あるいは狐に憑かれたなど、人智を越える領域として扱われていました。ですが、「無意識」の発見により自分は自分自身によってさえ完全にはコントロールできない、ということに気がつきました。人は、その人の生まれた土地、育って来た環境や人間関係、有象無象の見えないものの影響を受けながらしゃべっています。

 先程の映画に当てはめると、『グレートワルツ』は俳優が鮮やかに感情をコントロールしているように見えます。練りに練られた演技で、恐らくその人物の性格やそのときの感情、つまりは「キャラクター」を把握して慎重に身体が制御されています。しかし、それ故にそれはどこか19世紀的な人間観を思わせます。どこか「奥行き」がなく、「不自然」に思えるのです。

 一方、『緑の光線』はロメールの中でも特に即興的な作品と言われていますが、俳優の無意識に、制御不能な身体性に満ち満ちた演技だと思います。映っているもののの裏に、広く豊かな無意識の領域がある、という風に見えるのです。繰り返しになりますが、作品に見合った芝居、というものはあるので、どちらがいいか、悪いか、という話ではありません。

深田:演出の仕事は、俳優が演技をする前から始まっています。つまり、脚本の段階から始まっていると思うのです。

なので、「演技が下手」と思う時には、僕はまず台詞を疑います。自戒を込めて、駄目な台詞を喋らされるときの俳優ほど不幸なものはありません。

いわゆる「リアルに聴こえる台詞」というのは、技術的な部分である程度までは準備することができます。自分が脚本を書く時に意識するのはノイズを増やすこと、です。これは、ロメールが自身の映画論の本でも書いていることなのですが……。

ロメール曰く「セリフは大きく分けて、2つに分けられる。一つは必要な言葉、もう一つは本当らしい言葉」である、と。

「必要な言葉」とは、キャラクター、設定を伝えるために、あるいは物語を前に進めるために発せられる言葉です。それは、脚本家が物語を誘導するために書いている、つまり作り手の作為に満ちた言葉で、どうしたって不自然な言葉なのです。それを和らげるために「本当らしい言葉」が必要になってきます。それは、リアルに生々しく見せるために加えられる言葉です。『緑の光線』、あるいはロメールの映画では、物語を進めるために必要な言葉は恐らく2、3割程度しかないですね。先程見たシーンにもありましたが、僕達が友達と話している言葉にはほとんど意味がないものですよね。その感覚に近い、と思います。『グレートワルツ』の方は、洗練されすぎていて嘘くさい、と感じられることもあります。脚本では、物語を進めながら、リアルだと感じるように書いていく、ということが必要になってきます。

まあ、一方で、そんな「リアルさ」はおかまい無しでめっぽう面白い監督もいますが、カウリスマキとか、ゴダールとか……。

よく「映画はだめだけど俳優がいいね」みたいなことが言われますが、その2つは独立してはありえないのではないか、と思います。映画は時間の表現であり、俳優の演技は、映画の構成そのものと分ちがたく結びついています。そんなことから、映画を見ながら監督と俳優がひたすら演技を検証する、という今回のイベントは面白い試みなのではないかと思っています。

ではこれを前振りとして、ここから俳優が出演作について語る、ということに移っていこうと思います。(続きます

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