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【『石のような水』稽古場レポート】 他者を演じる演劇の可能性 吉田高尾

他者を演じる演劇の可能性

 劇団サンプル主宰の松井周さんが松田正隆さん原作の戯曲『石のような水』を映画美学校のアクターズ・コースの修了公演として演出すると聞いて、心がざわついた。なぜならば、誤解を恐れずに言えば、「大きな物語」に対して慎重な態度を示しつつも触れようとするというイメージが松井周さんにあったからだ。

それは同世代に劇団地点の三浦基さんという「大きな物語」に喧嘩を売る演出家がいるために余計にそう思えてしまうこともあるだろうし、チェルフィッチュ岡田利規さんという「大きな物語」を提示しないことをストレートに引き受けた演出家がいるためかもしれない。岡田利規さんの作品は内容も演出方法もそのミニマルさゆえに洗練された強度をもっており、ダンス的な抽象性と、時事的な現実を拮抗させることによる緊張感を作品に与えてもいる。時事的な「大きな現実」として震災があったことも『現在地』、『地面と床』に反映されてもいる。

しかし、この方法では「大きな過去」を描くことは難しいのではないかと私は思っている。「大きな過去」に飛び立って行くには、物語やドラマトゥルギーといった装置がまだまだ有効であり、そのことを意識した時に松田正隆さんという名前が浮上する。戯曲『石のような水』は内容的には「大きな物語」、「大きな過去」が主題ではない。どちらかと言うとコミカルな内容であり、松井周さん的にはいくらでもおもしろおかしく演出できそうな箇所も多い。

しかし、この作品が参照している映画『ストーカー』、『惑星ソラリス』は神と人間、信仰と科学といった「大きすぎる物語」を扱っている作品である。そして、この戯曲の終盤では日野秋子というラジオアナウンサーが放送で「物産館」のある町に迷い込む話をする台詞がある。この「物産館」とは広島の原爆ドームの開館時の名称「広島県物産陳列館」と関係していることは間違いない。しかし、原爆が落ちる前の広島に簡単に飛び立つことはできない。そこには「他者を演じる俳優」がどうしても必要になる。

ここが非常にデリケートな賭けになる。今の社会では、直近の震災で亡くなった方、親族、知り合いを亡くされた方もいる中で、当事者のように語ってはいけないという経験の特権化がネガティブな形で社会に定着していく中で、被災者も被災地も忘れ去られていく現実がある。

しかし、どんなに過酷な体験の当事者であっても、現在の日常があって、過去を振り返ったときには、本当の「そのときの自分」とはやはり距離があるはずである。「そのときの自分」は変更不可能な形で過去に在り、その「自分」に別の人間が入っていく、またはその「自分」が別の人間にとり憑くということはありうるような気がする。その可能性のひとつとして、他者を演じる演劇があると私は思う。松井周さんは稽古場で俳優たちに向かって「自分の壁を壊して、他の人になってみるんだ」と語っていた。俳優たちが他者を演じようと悪戦苦闘していくのを見学しながら、私はある俳優が気になっている。それは安曇野役の大園である。彼女が舞台の上で他者を演じることがこの作品のひとつのキーになっているような気が私はするのだ。

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吉田高尾/映画美学校批評家養成ギブス第三期生。

ecrito.fever.jp

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