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映画美学校アクターズ・コース ブログ

映画美学校アクターズ・コースの公式ブログです。映画・演劇を横断し活躍する「俳優養成講座 」 2016年9月2日(金)開講決定!

【SFリレーエッセイ第3回】こうして私はSFしそこねた。SFについてのとりとめない身辺雑記(深田晃司/映画監督)

【SFは怖い】

 SFは奥深い。そして正直よく分からない。つまり実際のところは奥深いかどうかさえよく分からないのだけど、なにしろそいつはサイエンス・フィクションなのか舌を噛みそうなスペキュレイティブ・フィクションなのか、あるいはすこし不思議なナニかなのか、不定形でぐにゃぐにゃで、結局何がどこまでどうなったら「SF」なのかも覚束ない。
 むしろ、私はSFについて語ることを恐れていると言ってもいい。

  マンガ家吾妻ひでおやその弟子筋(?)にあたるとり・みきのマンガにはよく、SFファンによるSF談義がカリカチュアされたギャグとして描かれるが、その議論はときにルールの分からないスポーツを見るようで、耳慣れない符牒の飛び交うその中にもし自分が紛れ込んでうっかり「SF? ブ、ブラッドベリの『火星年代記』とか好きかな」とか言おうものなら素人衆の烙印を押され蔑まれイジメられるのではないかとビクビクしてしまうのだ(個人の妄想です)。
 その吾妻ひでおは自身のSF遍歴を綴ったマンガ『こうして私はSFした』で、「スタンダール井上靖では現実に勝てない、SFこそ私の武器!」*1と若き著者自身に叫ばせているが、ねじくれ肥大化した自意識に七転八倒していた十代の私が現実と戦うために手にした武器は映画であった。もちろん映画はひとつの器であって、その中には『月世界旅行』に始まり『メトロポリス』やら『2001年宇宙の旅』やら『惑星ソラリス』やら、おもろいSF映画はいくらでもあるのだけど、SFをひとつの体系として捉え追尾していくマニア的なセンスと意欲がそもそも私にはなかった。暴食する映画の中にたまたまSFが混じっているに過ぎないのだ。
 くどくど言い訳を書いてみたが、とにかくそんなSF門外漢である私なりに、SFとの遭遇をつれづれに綴ってみたい。

【ノーチラスにのりそびれて】

 私にとって物心ついて初めての「SF体験」は、小学校も道半ばの頃に手にしたジュール・ヴェルヌの『海底二万里』だった。アシモフ先生言うところのセンス・オブ・ワンダーSFの本質と捉えるのであれば、恐らく小さな子供の日々の営みの中にもSFは偏在していたのだろうと想像するが、それらはもうあまりにも遠い記憶で、思い出せない。
 一方、ジュール・ヴェルヌとほぼ同時期に読んでいたもうひとつの本が、大デュマの『巌窟王』だった(それが『モンテ・クリフト伯』と呼ばれることを知ったのはずっと後のこと)。空想科学冒険小説の大古典『海底二万里』と、ナポレオン失脚から王政復古まで時代を跨ぐ陰惨な復讐ロマンの金字塔『巌窟王』。
 思えばまだ一桁しか生きていなかった私の前に現れたその二つの物語は、自分の中の「SF指数」を試すために仕組まれた別れ道だったのではないかと思う。どちらも思春期以前の子供の空想力を大いに刺激し存分に愉しませてくれたはずなのだが、そのときの自分は海洋の大冒険よりも、友に裏切られた男がひとりひとりに復讐を果たしていく『巌窟王』の陰湿な暗さに鼠のようにより強く惹かれたようで、その後の読書遍歴は裏切りや仇討ち、血と死の匂いに満ち満ちた『水滸伝』や『三国志』のような歴史小説、一方でマイクル・ムアコックの『エルリック・サーガ』シリーズのようなハイファンタジー、ダークファンタジーの世界にズブズブのめり込んでいった。気がついたときには私は、ノーチラス号から連なる輝かしいSF航路から下船させられてしまっていたのだ。
 余談になるが、十代の頃の自分が一番のめりこみ、そのペシミズティックな世界観によって多大な精神汚染を被った本はスィフトの『ガリバー旅行記』なのだけど、これはSFに含まれるのだろうか。SFの境界線がどこにあるのか、誰か教えて下さい。

【未来の予言】

 そんな、歴史好きファンタジー好き小坊主がSFと仲良しになれるタイミングはあったのだろうか。
 あった。日本史の歴史年表を過去から現代に歩を進めながら、一方で超未来から現代に逆行してくる、手塚治虫の『火の鳥』だ。特に思い入れが強かったのは、奈良時代のふたりの仏師の数奇な人生の交錯の中に輪廻転生の死生観が折り込まれた『鳳凰編』と、交通事故により体がアンドロイドになってしまったことで、人間がガラクタに、アンドロイドが人間に見えるようになってしまった男の恋愛と流転を描いた『復活編』だ。
 ジュール・ヴェルヌしかり、優れたSF作家は往々にして未来の予言者となるが、手塚治虫の描いた未来もまた「もしかしたらこういう未来が来るかも」というリアリティを持って迫ってきた。そこで重要なのは、科学的考証の正しさよりも、未来における社会構造の変容の中で、それでも現代の私達と地続きでしかない人間たちが追い込まれるであろう葛藤に、きちんと想像力の翼を羽ばたかせているかどうかだろう。『復活編』での、かつて人間であったロボットが、自己のアイデンティティの所在なさに苦悩しわずかに残った人間としての記憶を頼りに神に救いを求める場面は、大人になった今読んでも鳥肌の立つような名シーンである。
 以後、私にとってSF的感性に触れる機会の大半はマンガによってもたらされたのは間違いない。
 強引な連想で恐縮であるが、その手塚治虫の名前を冠した賞の受賞作家である諸星大二郎の驚異の初期作『生物都市』や近年の快作『バイオの黙示録』を前に、科学的考証を問うても意味のないことで、手塚治虫諸星大二郎の描く未来にあるのは、「小説の中で突然視野が大きく広がり、事件や宇宙そのものの真のスケールを思い知らされたときに経験する、畏怖の感覚」*2、すなわちセンス・オブ・ワンダーの感覚そのものなのだ。

 最後に、ひとつだけ偏愛している作品を挙げてこのとりとめない雑文を終わりにしたい。
 ぐにゃりと価値観が歪んでいくようなSF短編をいくつも残した藤子・F・不二雄の短編マンガのひとつに、『大予言』という小品がある。ある恐ろしい未来を予知してノイローゼになり家に閉じこもってしまった予言者を、その同僚が尋ねる、というただそれだけの7ページの短編である。結末は伏せておくが、このそっけなくあっけない、しかしそこにある絶望の深さに息を飲む作品は、結局私達が生きる現代社会そのものが既にSF的で荒唐無稽でディストピアであることを示唆してくれる。

 ・・・と、ここまで書いて、そういえばYouTubeのリンクをひとつあげろというお題があったのを今思い出しました。
 何も考えてなかったので、人生で最高に興奮したゴキゲンなSF映画の予告編でも上げてお茶でも濁そうかと動画を検索したら、予告編の代わりにこんなものが見つかった。「見物は、宇宙のSFの怖さですが、問題は、この女が全裸だ、裸だと言うことです」。さすが、淀長さん。
 


淀川長治 解説 " スペースバンパイア " - YouTube

*1: Hideo Collection 6 『陽はまた昇る』P44、吾妻ひでお著、双葉社

*2:『SF大百科事典』P306、ジョン・クルート編著、グラフィック社

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