映画美学校アクターズ・コース ブログ

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between (p)layers——『石のような水』解説あるいはプレ劇評(山崎健太)

 松田正隆の戯曲『石のような水』は2013年、FESTIVAL/TOKYOの主催プログラムの一本として維新派・松本雄吉の演出で上演された。松田正隆と言えば、近年は同じくFESTIVAL/TOKYOで上演された『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(2012年)など、マレビトの会における実験的・先鋭的な作品の印象が強いが、90年代には平田オリザ岩松了らとともにいわゆる「静かな演劇」の一翼を担っていた。松田は自らが作・演出を務める時空劇場の時代に『海と日傘』(1994年)で第40回岸田國士戯曲賞を受賞し、同劇団解散後も平田に戯曲を提供する形で劇作を続けた。松田・平田のタッグで1997年に初演された『月の岬』は2012年にも青年団で再演されている。今回、映画美学校アクターズ・コース第4回公演『石のような水』の演出を担当する松井周もまた青年団出身である。

 だが、『石のような水』は会話劇ではあるものの、「静かな演劇」と言ったときに多くの人が思い浮かべるイメージからは大きく隔たっている。たとえば、松井がこれまで演出を手がけてきた「静かな演劇」作品、平田の『カガクするココロ』『革命日記』、そして岩松了の『蒲団と達磨』は全て一つの空間で出来事が展開し、時間の切断や転換もない。一方、『石のような水』は46もの場面から構成されており、場面ごとに(ときには場面の中でさえ)時空間は移り変わっていく。このような特徴は『石のような水』という戯曲に、戯曲というよりもむしろ映画の脚本に近い印象を付与している。実際、たとえば戯曲の「夜の都市の路上が続く。/男や女が立っている。」というト書きはスクリーンに映し出されるべき光景を指定しているように読めるし、初演の演出を担当した松本は演出ノートに「シーン展開はオーバーラップ、パン、フラッシュバックなど、映画を意識した方法をとる」と記している。前置きが長くなってしまったが、松井周演出版『石のような水』の見所の一つはまずここにあるだろう。

 と言うのも、初演の松本版と今回の松井版では、作品が上演される空間に大きな違いがあるからだ。松本版はにしすがも創造舎の体育館で上演され、その広大な空間を活かした演出が採られていた。演出ノートには「段丘状の舞台は、その各部分が公園、須藤の部屋、秋子の放送局、繁華街の交差点、路地、プールサイド、カフェ、港の岸壁、フェリーの甲板、などなど、として設定される」とある。「段丘状の舞台」というのは舞台の手前から奥へと上がっていく幅広い階段のようなものを想像すればよい(とはいえ段と段との間には隙間が空いており、厳密には階段ではないのだが)。基本的に段をまたぐ移動はなく、水平方向にのみ移動する登場人物たちはどこか人形めいても見える。場面転換とそれに伴う時空間の移動は、舞台上に水平に引かれたラインによって示された異なるレイヤーへの移動として表わされる。たとえば舞台上手奥で一つの場面が演じられていたかと思うと次の場面は下手手前で演じられるという具合だ。段差はそのまま奥行きと高さの差異となり、水平方向の広がりを活かした左右への場面の振分けと組み合わせられることで各場面を舞台上に立体的に配置する。場面ごとに舞台上の異なる場所に焦点を合わせるよう要請される観客の視線の運動が、映画におけるモンタージュの代替物となるのだ。

 ところが、今回の松井版が上演されるアトリエ春風舎はにしすがも創造舎の体育館と比べると著しく狭く、空間に観客の視線の運動を呼び込むことは難しい。およそ客席のどこに座っていても舞台が一望できてしまうからだ。松本版では複数の異なるレイヤーの存在が視覚的にはっきりと示されていたが、松井版ではそれらのレイヤーは重なりあった状態で存在せざるを得ない。松井版の観客は、一つの空間がたとえばカフェからフェリーの甲板へ、そしてまた別の空間へと変容していく様を見ることになる。もちろん、46ある場面の転換を暗転などではっきりと示しながら上演するという手もなくはないが、おそらくこの戯曲は、一見したところの「映画的」要素に反して、そのような「映画的な」上演を要請してはいない。場面の境が溶け合い空間が緩やかに変容していく様、一つのレイヤーからまた別のレイヤーへの移行こそが舞台に上げられるべきものとしてそこにはあり、そしてそれこそが『石のような水』の主題の一つでもある。

 このような時空間のあり方には「静かな演劇」よりもむしろ、ある時期以降のサンプル作品との類似性を見ることができるだろう。たとえば『家族の肖像』(2008年)では、異なる時空間に属する複数の場面がシームレスに演じられ、しかも同一の時空間には属さないはずの登場人物たちの間で弁当が回し食いされることによって、それらが同じ空間で演じられているということこそがむしろ強調されているようでさえあった。舞台上にはその瞬間に演じられている場面に存在している登場人物を演じる俳優だけでなく、その場面に本来はいないはずの登場人物を演じる俳優も存在することになる。その場にいないのにいる、いるのにいない、幽霊のような俳優たち。空間だけでなく俳優もまた、複数のレイヤーの間を行き来する。いや、俳優とはそもそも複数のレイヤーの間を生きる存在なのだ。

 どのような役であれ俳優であれ、舞台に立つ俳優は常に、演じるべき役と自分自身との間に不可避的に生じるギャップを埋める必要に迫られる。平田オリザは個人が使う言語や身振りの範囲のことを「コンテクスト」と呼び、「演ずるということは、つまるところ、自分のコンテクストと、演じるべき対象のコンテクストを縒り合わせることなのだ」(『演劇入門』)と言う。俳優が「ある程度、自在にコンテクストをさまざまな方向に広げていけるような方法」としての演技/演出。それはつまり、自らの生きるレイヤーとまた別のレイヤーとの間を生きるための術に他ならない。

 松井版『石のような水』の上演においては、映画美学校アクターズ・コースにおける1年間のカリキュラムの締めくくりにふさわしく、俳優たちが身につけた「レイヤーの間を生きる技術」が剥き出しのままに提示されることになるだろう。時間的にも空間的にも切断された場面の連なりとして構成されたこの戯曲では、場面が変わればその場にいる登場人物の顔ぶれも変わってしまう。しかも、同じ場面の「続き」へと戻ってくることはほとんどないのだ。俳優たちは自らが演じる役が存在しないはずの場面でもその場にいることを余儀なくされるが、同時にその場にい続けることも許されない。再び元の場面へと戻ることがない以上、何食わぬ顔で自らの存在するレイヤーを(まるで裏番組のように)維持することも封じられている。ある場面に存在した登場人物/俳優は、続く場面で幽霊のように「いるのにいない」存在となり、そして場合によっては舞台上から退場しなければならない。そこで求められるのは自らの在り方を調整しコントロールする力であり、複数のレイヤーの間をしなやかに泳ぐ能力だ。

 『ストーカー』や『惑星ソラリス』といったタルコフスキーの映画を下敷きにした『石のような水』は、〈ゾーン〉への案内人・須藤とその妻・今日子、今日子の姉の秋子の三人を中心として展開される、言わばSFメロドラマだ。〈ゾーン〉はかつて隕石が落ちてできた穴を中心とした30㎞圏内を指す呼称であり、かつてそこを訪れた人の誰一人として戻って来ることがなかったため、現在は政府によって立ち入り禁止区域に指定されている。だが〈ゾーン〉への訪問を希望する人は後を断たない。〈ゾーン〉を訪れ、そこに降る雨水を飲むと死者と再会できるからだ。〈ゾーン〉は異界への穴、あるいは異界それ自体として存在している。

 すでに明らかなように、『石のような水』においては物語のレベルでも複数のレイヤーの間での移行や重なり合いが描かれている。〈ゾーン〉という異界と日常の世界。あるいは生者の世界と死者の世界。戯曲の形式はこのような主題を上演のレベルでも顕在化させるためのものとしてあるのではないだろうか? 実際のところ、『石のような水』では同様のモチーフが執拗に変奏されることになる。だがそれがどのようなものでありどのようなものになるのかは劇場で確認すべきことだ。一つだけ付言しておくならば、〈ゾーン〉への案内人・須藤だけでなく、深夜ラジオのMCとして目の前にはいないリスナーへと声を届ける秋子もまた、異界との回路をつなぐある種の憑代として機能することになるだろう。

 『石のような水』の登場人物は俳優たちの映し鏡であり、〈ゾーン〉とは劇場の異名に他ならない。現実/虚構の狭間を生きる俳優たちは私たち観客の案内人となり、異空間への穴を穿つ。観客はそこで「何か」と遭遇するために劇場へと足を運ぶのだ。

 

山崎健

演劇研究・批評。SFマガジン早川書房)にて「現代日本演劇のSF的諸相」連載中。早稲田大学文学研究科表象・メディア論コース博士課程。映画美学校批評家養成ギブス1期修了生。