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『石のような水』 稽古場見学から本番までを見て(吉田高尾)

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 4月10日から4月12日の間でアトリエ春風舎にて上演された映画美学校アクターズ・コース第4回公演『石のような水』について、劇評というかレビューを書こうとしながら、今までどの演劇を見たときよりも書くのに戸惑っている。それというのも、私が参加した3月18日の稽古場見学から、10回近くも稽古場見学をさせていただいたことが影響している。上演された本番の中で、私が見た4月11日14時からの回の時の作品だけを純粋に独立させて、表層的に語るということが今の私にはできなくなっている。だからと言って、作品が作られるプロセスも作品の評価に影響するといったことを言いたくはないのだが、作品が出来上がっていく過程で、無限の可能性から、ひとつが選択されていくプロセスが私にとってはとてもスリリングに思えたのだ。それは稽古の段階に限らず、本番と別の日の本番にも言えることで、複数パラレルワールドが生成されていくのを目撃することがこんなにもおもしろいものだとは思っていなかった。同じ作品を繰り返し見ることの喜びは、映画や小説で知っていたつもりだったのだが、演劇の場合はそれとは全く違う営みであることを今回のことで再認識させられた。そこには自らの感じ方が変容していくだけではなく、今ここで生成されていくことの不確定要素を確定していく何かの存在がある気がする。それは私がサッカーをしている時、見ている時に感じる、あの偶然と奇蹟の神様としか言い様のないものなのかもしれない。

 『石のような水』の稽古中でも俳優たちが台詞を発話しながらも、それが台詞であることを忘れて話し、相手の言うことを聞き、反応していくそのプロセスは、サッカーのパスの練習風景を見ているようだった。稽古の始めの頃では相手も見ずに話したり、自分の言っていることも台詞だから言っているように見えた。それは相手もボールも見ずにサッカーをするようなもので、パスが通ることはない。モノローグも自分の言葉をどう受けて、どうつなげていくかというプランとプロセスが見えなくては、瞬時に台詞を言わされているように見えてしまう。サッカーにおいて、リフティングのボールを下に落とさずに続けていくには、プランとプロセスが重要なのと同じことだ。そして、稽古の中でそうしたことを俳優たちはみるみる内に体得していく。その体得していったプレイ(松井周の言うプレイとはまた別。スポーツのプレイ)が集団でシステム化され、そのシステム内で不確定要素を吸収して変化していく様はダイナミックそのものだった。その変容していくシステムは出演者が相互に影響を受け合うために、俳優ひとりの動きから、スピードが早くなりすぎたり、遅くなりすぎたり、演技の硬さが伝染していくことがある。そこを見逃さず、微調整していく講師・演出家の松井周の手際には本当に感動した。松井周の持つセンサーとそれを言語化する仕組みは人間物理学と言っていいものだった。そして、4月1日の通し稽古の後で、松井周はそのシステムにある課題を与える。「ゾーン」に影響を受けろと。「ゾーン」という有害なのか無害なのか、どこまで影響があるのか、わけのわからない現実に影響を受けることをこのシステムに要求したのだ。その要求に今回の出演者たちのシステムがどこまで答えることができたのかを私が判断することはできない。なぜならそれは、その要求を知った上で、本番を観た私が判断することではなく、その要求を知らずに観た人に判断が委ねられる気がするからだ。ある人は「ゾーン」なんて全く感じないという人もいれば、薄気味悪いなと思った人もいたかもしれない。人によっては、はっきりと見えたのかもしれない。そして、そのことが私たちの日常にダイナミックにフィードバックされる時に、今回の『石のような水』の本当の評価が問われることになるだろう。

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