映画美学校アクターズ・コース ブログ

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映画美学校アクターズ・コースの公式ブログです。アクターズ・コース俳優養成講座2023、9/1(金)開講決定!

【講師リレーコラム】フラットな現場を指向する|山内健司[俳優/青年団所属]

俳優にとって理想的な現場とはどういうものでしょうか?

映画美学校では、カリキュラムの最初に「俳優の権利と危機管理」という講義があります。映画と演劇それぞれの現場を数多く経験している講師たちから、自立した俳優としてその仕事を長く楽しく継続していくための心構えを学びます。

今回はその担当講師である山内健司さんにコラムをいただきました!
それではどうぞー!

 

 

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映画美学校アクターズ・コースは「自分で創れる俳優になる」として俳優の自立をミッションにかかげています。でも、もちろんこれは講師である僕たち自身の大きな課題であり、日々格闘している当事者は僕たちなんです。

 俳優の自立は、俳優単独だけのことではなく、人々の関係のうちにあることじゃないかな、と思っています。ちょっと僕の個人的な思いを書きますね、コラムなんで。

 フランスで仕事をする日本人の友人がこんなことを言ってました。

「フランスの演出家って普通に話せるのね、たとえばさ、稽古の前にちょっと早く稽古場に着いたりするじゃない。で、結構歳上だったりする演出家と自分とたまたま二人っきりだったりするとするじゃない。フランスだと、今朝あったこととか、家族の話とか、昨日の稽古のあとの話とか、そう、なんか普通に話せるのね、同じ俳優の仲間みたいに。日本だとなんかそうはいかないんだよなあ、なんか居心地が悪かったし、なに話していいかわからなくなったり」

 僕は演劇をたくさん見ます。そして今日も、野心的な演出家たちが、この世の中で一番面白い、一番重要な、一番イケてる、とにかくものすごいものを作ろうと七転八倒してます。ものすごい作品はめったにありませんが、演劇は今日も面白いです。

 一方で僕は最近、強権的な演出家の作品というものになんだか興味が持てなくなってきました。作品を見ていても、演出家から俳優にかかっている圧は意外と丸見えで、なんだか醒めてしまうのです。それは世代をまたぐ大きなプロダクションのことだけではなく、むしろ、野心的な若い演出家が自身のビジョンを実現するために強烈な圧をかけることもよくあります。

 もちろん俳優にとても大きな負荷がかかっているパフォーマンスというものはたくさんあります。演出家の提案に、とにかく乗ってみようよということもたくさんあります。俳優がなぜか独り相撲みたいに自身に負荷をかけちゃってるんじゃないか、ということもよくあります(、、、書いていてわが身を嘆きます)。俳優に負荷はかかるもんですし、そんなに単純なものではありません。

 フラットな現場という理想が、最近僕の中で明確になりはじめています。象の鼻テラスというところで、mamagotoという劇団の演出家の柴幸男くんが、2013年から3年にわたって「シアターゾウノハナ」というアートプロジェクトを行ないました。なぜでしょう、あの現場では僕は若い人々に真っすぐものを言われたし、真っすぐものが言えた。それは、以前は自分のビジョンを実現する強権的な一面を持っていたと自身で述べる、柴くんという演出家のフラットな創作現場への指向のもとに実現した現場でした。

 真っすぐものが言えるってどういうことでしょうか。僕は若い俳優にとってはもうほんとにおじさんだし、それなりに長く俳優やってるし、自分の劇団なんかですといわゆる「先輩」として若い俳優におそらく気遣われちゃう。

 やっぱフランスとかドイツとか、俳優がどんどんものを言う稽古場って素晴らしい、と、まずヨーロッパの稽古場を経験した人はよく言いますし、僕も大変に衝撃をうけました。でも、それを日本でそのまま真似してやろうとすると、悲しいくらい弱肉強食なパワハラ空間が出現することもままあります。

 真っすぐものを言う、その前にいろいろ何かが必要なようです。私たちは私たちのやり方をつくらなくてはいけない。

 そこに信頼があれば、パワハラじゃない、という言い方も非常によく聞きます。でもそれも、お互いがそれでいいと思っているんだからいいじゃないという、罠がそこに出現することもあります。DVなんかの依存関係みたいなもんでしょうか。

 そこに敬意があれば、という言い方を僕は今のところよくします。これもフランスでの話ですが、ある分野で第一線の在フランスの日本人が、日本社会は専門家に対する敬意がないのよ、と普通の大きさの声でしたが、僕には叫びに聞こえる悲しみに満ちた一言を発したのを聞いたことがあります。

 これは専門家に対してだけでしょうか。他者の生にたいしての敬意の持ち方を、では、私たちの社会はどうやって受け継いできたのでしょうか。これは大きな問いです。

 僕は、俳優は、他者の生にたいして敬意をもつには最高の機会だと思います。

 誰だって自分が行なってきた選択を、他者に否定されたくないし、何よりも自分で自分がしてきた選択を否定したくない。他者は、理解できないことだらけです。そんな他者の選択を、俳優は「役」として、自分の身体を通して演じるのだと思います。舞台ですと、それは100回とか200回とか、3年とか時には20年とか、同じ役をやります。他者を揶揄したり侮るような態度ではとても続ける事はできません。そこで必要なのはおそらく敬意と感じています。

 僕たちは、演技を通して、圧倒的な他者に手を伸ばす事ができます。たとえば今世界を揺るがすISの兵士は本当に圧倒的に他者です。彼らがいま、どんな言葉をどんな声で話しているのか知るよしもありません。では、彼らを悲しむイスラム社会の人々はどんな顔でどんな言葉を話しているのでしょうか。今、僕は中東の現代演劇や映画が気になってしかたありません。戯曲やシナリオの言葉を自分の身体を通して、僕たちは彼らに手を伸ばすことが出来るかもしれません。彼らのことは、わからない、でも何なんだろう、と。

 真っすぐにものを言うためには、「役」に手を伸ばすように、他者に手を伸ばせばいいのかなあと今僕はゆるりと考えています。

 (山内健司