映画美学校アクターズ・コース ブログ

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映画美学校アクターズ・コースの公式ブログです。アクターズ・コース俳優養成講座2023、9/1(金)開講決定!

演劇版『シティキラー』評:佐々木敦

f:id:eigabigakkou:20200317202654j:plain シティキラーとは、殺人鬼のことではなくて、もしも地球に衝突したら一個の街を丸ごと破壊してしまいかねないほどの大きさを持った小惑星のことである。

 である、と書いたが、わたしもつい最近知ったのだ。知ったときにすぐに思い浮かべたのは、ラース・フォン・トリアー監督の『メランコリア』だった。あの映画ではメランコリアという小惑星が地球にぶつかって人類は滅亡する。街どころではない。わたしはトリアーの作品を好きではないが、あの映画は偏愛している。キルスティン・ダンスト演じるヒロインは、強度の鬱によって周囲も自分自身も破滅の寸前まで行っていたのに、メランコリアの接近を知るやいなや、誰よりもしっかりした人間になる。そういうことは、東日本大震災の後にもあったらしい。あったらしい、というか、わたしの鬱の知人も、あのあと元気になった。わたしはそういうことを昔、本に書いたことがある。

 『シティキラー』は、映画美学校アクターズ・コース2019年度修了公演として、講師を務めたウンゲツィーファ主宰の演劇作家、本橋龍の作演出によって2020年3月にアトリエ春風舎で上演されるはずだった。初日二日前、公演の中止が発表された。「主催である文化庁より、新型コロナウイルス感染症の拡大防止に係る要請を受けて」とのことだった。公演チケットの予約状況は上々で、追加公演も決まっている状況でのストップだった。結果として直前のキャンセルになってしまったが、そのこと自体が、関係者がギリギリまで上演の実現のために尽力していたことを推察させた。無念だろうと思った。同様のことは他にいくつも起きており、それぞれにさまざまな事情があるのだろうが、わたしにとって『シティキラー』の中止は、ことさらに残念な出来事だった。すごく期待していたからだ。現在もっとも注目と信頼に値する劇作家、演出家のひとりである本橋龍が、アクターズ・コースの俳優たちとともに、どんな芝居を創り上げてみせるのか、わたしはワクワクしていたのだ。

 公演は中止になってしまったが、本番と同じかたちでゲネプロは行われることになり、わたしは映画美学校の関係者として、その場に立ち会うことが出来た。わたしはアクターズ・コースの立ち上げの際、演劇関係の講師の選定にアドバイザーとしてかかわっており、それとはまた別に、批評の講座である「批評家養成ギブス」を映画美学校でやらせていただいていたことがある。そんなわけで、事務局の四方智子さんにお声がけいただいたのだった。

 

 

前置きが長くなってしまったが、わたしは『シティキラー』のゲネを観ることが出来た。それはとても本橋龍らしい作品であり、そしてまたとても映画美学校アクターズ・コースらしい作品でもあった。それに敢えて言うならば、とても「今」らしい作品でもあったと思う。今こそ観られるべき演劇だった。今、観たかった演劇だった。

 映画美学校アクターズ・コースに限らないが、こういった俳優養成のスクールの公演には、常に或るひとつの前提というか条件がある。それはもちろん、受講生の数や顔ぶれによって座組みがある程度決まってしまうということだ。アクターズ・コースは毎期修了公演を行っているが、既存の戯曲をやる場合は、キャストの方で調整せざるを得ない。だがオリジナルであれば、当て書きかどうかまではともかく、最初から出演する者たちがわかっている状態で作劇をすることが出来る。『シティキラー』がそうであったのかどうかをわたしは知らないが、間違いなく言えることは、これが群像劇/集団劇であるということだ。出演者は全部で十四名、うちひとりアクターズ・コース講師の近藤強である。他の十三人が修了生だ。そのなかにはすでに劇団に所属しているひとや、舞台で何度も観たことがあるひともいた。だが全員が綺麗にフラットだった。それは誰かの物語ではなく、彼女ら彼らの物語だった。これは重要なことだと思う。『シティキラー』には「主役」がいなかった。というか全員が主役だった。

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 とはいえ当然、劇の始まりを告げる役割の者はいて、コイシという女性がゲストハウスを訪ねてくるところから物語は幕を開ける。そこはどことは名指されていないが、日本のどこか地方の山のほう、でも人里離れた場所というわけではない。コイシは今日からしばらくここに住む、ためにやってきたのだ。そこはヤマミ荘という名前で、なぜならヤマミという男がオーナーであるからだ。ちょうどコイシと入れ替わりにヤマミ荘を出ていくネムリの送別会が行われていたところで、コイシの前に次々と住人たちや近隣の人などが顔を見せる。あっという間にコイシは狂言回しから解放されて、皆が皆、互いにさまざまなことを好き好きに喋り、話し、語る。

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 『シティキラー』には、いわゆる「メイン・ストーリー」は存在しない。だが見方を変えれば、そこには無数の「サブ・ストーリー」がある。物語が溢れかえっていると言ってもいい。登場人物の数と、その組み合わせ/掛け合わせの数だけ、ストーリーがある。これは筋を追う演劇ではなく、語られる/話されるたくさんの気持ちや考え、想いを聞く演劇だ。そんな中から、やがて彼女ら彼らの見えざる関係性や、そこで新たに生まれる関係性がほの見えてくる。彼女ら彼らの来歴や、どんな人間なのか、どんなことを考えているのか、どんなことに心動かされたりされなかったりするのか、などなどが浮かび上がってくる。だがそれらは完全にわかることはない。観客に知れるのはほんのわずかなことでしかない。しかし確かに伝わってくるのは、彼女ら彼らが、そこに、ここにいた、ということ、彼女ら彼らが、ここに、そこにいる、ということである。演劇というものは常にそうだ。そこにいるひとたちがそこにいないひとたちをいることにする。俳優と呼ばれるひとたちがそこにいて、彼女ら彼らは俳優である以前にひとりひとりの人間であり、しかし同時に彼女ら彼らはそこにはおらず、どこにもいない想像上の人物たち、でもある。友愛のようなものが、恋愛のようなものが、共感のようなものが、違和のようなものが、その他さまざまな感情の函数が、現れては消えてゆく。ヤマミ荘という架空の空間に集ったひとたちの、ちいさな物語が重なり合う。

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 シティキラーはどうなったのか? コイシは時々、まるで小説の語り手か何かのようにモノローグするのだが、彼女は何度か、ひとつの街を滅ぼすほどの大きさの隕石が地球にぶつかる寸前ですれ違ったらしい、と言う。けれども、私たちは、彼らは、そのことを知らなかった、と。ヤマミ荘の近くには隕石が落ちた跡がある。廃墟もあるらしい。『メランコリア』とは違って、これはシティキラーが、アースキラーが衝突しない話だ。それどころか、そのことに気づいてさえいないままで終わる話。世界の終わりにぎりぎりまで近づいたことを知らずに終わる話。だからこれは一種のユートピアの物語だと言っていいのだろう。ユートピアとは「どこにもない場所」という意味である。これは「場所」の物語だ。ヤマミがヤマミ荘を開いたのは、2012年。東日本大震災がきっかけだった。コイシの後にヤマミ荘にやってくるウズベキスタン人のシトラは、こんなことを言う。「ここは雪原だったり部屋の中だったり山の上だったり森の中だったり海だったり夢の中だったり劇場だったり住宅街だったり廃墟だったりします」。シトラはこの台詞を、最初はロシア語で、二度目はウズベク語で言う。もちろん正解は「劇場」だ。アトリエ春風舎というのがその劇場の名前だ。しかしそこは雪原だったり部屋の中だったり山の上だったり森の中だったり海だったり夢の中だったり住宅街だったり廃墟だったりもするし、何よりもヤマミ荘であり、ヤマミ荘の一階と二階と三階のどこでもあり、でもほんとうは地下一階なのだった。どこでもあり得るがゆえにどこでもない、どこにもないのだが、そこに、ここに、疑いなくある場所、ユートピア

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 『シティキラー』は、ひとつの場所に、あるとき集まったひとたちの物語だった。そのひとたちは、幾つかの偶然、でも部分的には必然にとてもよく似ている幾つもの偶然の導きによって、そこにあるとき一緒にいたりいなかったりした。そのことを『シティキラー』は物語る。出来るだけ丁寧に、だが隙間だらけであることは十分に承知で。自分と入れ替わりでヤマミ荘に寄宿するコイシのことを、ネムリは「私の転生先」と言う。ヤマミ荘を去ることは死ぬことに等しい。だがそこには悲壮感はない。なぜならその気になればいつだって戻ってこられるからだ。たとえそれきり二度と戻らなかったとしても、それはそうなのだ。実際、ネムリから届いた手紙を皆が読んでいると、彼女はあっさりと現れる。みんなネムリがそこにはいないことを承知しているが、それでも彼女が今、ここにいることをわかっている。

 実は劇の最初にコイシが出会うのは「誰か」と呼ばれる誰かだ。コイシが「誰かいますかー」と無人の空間に声を投げかけると、誰かが「誰もいません」と答える。だからその人物、いや、その存在は「誰か」と呼ばれる。その誰かは劇の最後にも登場して、始まりと同じことを言うだろう。だから結局、誰もいなかったのだ、という見立てはたぶん正しいが、だがそれと同時に、誰かも含めて、そこには十四人のひとたちが確かにいたのだった。この目で見たのだから間違いない。シティキラーは街を滅ぼさなかった。その寸前までは近づいたが、それは彼女ら彼らの居場所を崩壊させることはなく、あっさりと宇宙の果てに去っていったのだ。彼女ら彼らは、実のところは誰もいなかったのだが、そこにいた。全員が、間違いなく、そこに。

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 ヤマミ荘には別名が二つある。アトリエ春風舎、そして映画美学校アクターズ・コースである。

 

佐々木敦
HEADZ主宰。ことばと(書肆侃侃房)編集長。芸術文化の複数の領域で活動する。著書多数。近著として『私は小説である』『この映画を視ているのは誰か?』『アートートロジー』。初めての小説「半睡」が新潮2020年4月号に掲載。