映画美学校アクターズ・コース ブログ

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映画美学校アクターズ・コースの公式ブログです。アクターズ・コース俳優養成講座2023、9/1(金)開講決定!

レポート-2『コトバ・プレイ 1~批評と演劇の関係は何を生み出すか?』

昨日に引き続き「コトバ・プレイ」のレポート-2です。3回にわけての全文掲載となります。

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山﨑:田上さんは今度3月末に行われる修了公演『美学』の作・演出で、今回の『革命日記』には直接関係ないんですが、これから作品に対して批評、言葉が与えられていくことになります。これまでのご自分の作品についてでも良いんですけど、批評とか外からの言葉に対して期待するもの、スタンス的なものはどういう形で取っていらっしゃいますか?

田上:まだ一応本番やってないですからね。でも稽古場とか来ていただいたときに、惨憺たる批評が出てきたら危ないですよね。いま次の修了公演の創作をしているので、『革命日記』についてはまた別の視点で観てました。みなさんそれぞれの目線で、俳優の目線とか作品の産みの親の目線とかいろいろあると思うのですが、僕はいま稽古場でがんばってる人たちのこととか、「革命日記」も創作のなかでいろんなことがあった後で辿り着いた完成品なんだな、とか言う風に思って観て。なんか見ていて無駄に緊張するのと、出来上がってて良いなあって思うのと、渦巻きますよね、自分の中で。客観的にこの俳優面白いなとか、そういう見方じゃない見方をしてしまうというか。これは批評じゃないですけどね。完成している分、半分ヤキモチみたいなものもありますし。

でも批評家って、僕すごい面白いなと思います。実は僕中学校くらいまで映画評論家になりたかったんですよ。淀川長治さん、昔テレビでやってたじゃないですか、これ良い仕事だなと思って。「こわいですね~、すごい面白いですね~」とか言って。(笑)なんか批評ってそういうことなのかな、って勘違いしてて。

で大学入っていろんな批評してるもの読んで、違ったんだなと思って。淀川さんみたいに自分の言葉で観劇意欲を駆り立てたりするって人もいると思うんだけど、そのうえでどういうこと考えて、批評しようと思っているんだろうか。私にはこの作品がこのような視点でこういう組み立てで見えました、みたいなことを書く人もいますし、この場面ではこういう仕掛けになっているとか、目に見えないものを掴み取ろうとする人もいるし。でもその根源にあるものは、自分のものの見方とか作品の見方を、人に提示したいみたいなことが根本にあるのか、あるいはその先に例えば演劇って面白いよ、みたいなことがあるのか。人それぞれだと思うんですけど、みなさんはどう思ってやってるのかなと思って。

綾門:僕は批評は、面白さを感じたときにそれを残しておきたいという欲望がすごく強くあるんですね。演劇に限らず落語も好きだし、ライブとか、いわゆる舞台関係のものが結構好きなんですけど。そういったものが結局ツイッターで「面白かったー」って言って流れてしまうだけなのは、あまり良くないなと思っていて。かと言って、僕は感想ブログとかはじゃあそれをちゃんと残してるかっていうと、それも違う気がしているんです。感想ブログっていうのは、主観の檻から逃れられてないので、その人がどう思ったかっていうことになると、かなり個人的な話になってしまって、残ってる感じがしないんです。何かを享受したっていうときに、面白さの根源みたいなもの、それはなんでどういう理屈でそれが自分にもたらされたのかを、ちゃんと残しておかないと、自分の観てるときの気持ちも曖昧になっている気がして、それが怖いんですよ。

例えば乗せられてしまう、ってことがあると思うんですね。ブームみたいなことが訪れたときに、みんな面白いって言ってるからとりあえず面白いと思ってしまう、人知れず乗ってしまうってこととか。逆にすげー面白いって思ったのに、「いやーひどかったね」って帰り道に友達が言ってたら一緒になって「ひどかったね」と言ってしまうような。そういったことに批評って立ち向かえると思っていて。それはだから、僕あんまり作品分析みたいなことに興味ないんですよ。これはこことつながってて、これはこういう構造で成り立ってる。それは観りゃわかるだろって思うから、それは別に必要だとは思うんですけど、僕が興味あるのはやっぱりその先の話で。しかもそれを提示したときに、レスポンスがありますよね、そのレスポンスで、みんなそう思ってたのか、自分だけそう思っていたのかっていうことも、やっぱり出さないとわからないわけですね。すげー変なところに感動してたりってこともあるし、みんなそのシーンに目をかっ開いて観たみたいなこともあるわけだし。それが演劇だと特に、映画とか文学と違って、残らないからこそそういう営みみたいなものが衰退してしまうと、ただ泡になって消えるっていう危機感みたいなものがすごく強くあって。主に舞台関係の批評もやってる、っていうのが正直なところです。

山﨑:ちょっとわからなかったのが、その「面白い」っていうのを残したい、っていうのと、作品分析には興味が無いっていうことが、俺の中では結びつかない。っていうか俺にとってそれは一つのことなのね。まったく切り分けられなくって。そこがどうして分けられるのか。まず作品については語るわけじゃん。

綾門:作品分析って言ってもいろんなやり方があると思うんですけど、僕が興味のない分析っていうのは、作品の成り立ちみたいなもので、言われなくてもわかるベーシックなことってあるじゃないですか。例えばある批評を読んだときに、ここがこうなってここがこうなってて、で終わってるとあんまり読んだ意味が無いなって気持ちになるんですね。もちろんそれがあったうえで先に進むんですけども。僕が感じる面白さっていうものが、作品の構造によるものだってあんまし思わないというか。僕はそれは一致してないんですね。同じ構造を持った作品でも、こっちは面白いって思ってこっちは面白くないってことももちろんあるわけで、構造ではなくて結構ピンポイントで結びついてる気がして。それは構造っていうよりはもう少し微細なものによって自分が判断してるって思うんですね。

山﨑:作品分析は別に構造だけじゃないと思うんですけど、またそこを突っ込んでくと長くなってしまうので、とりあえず一回港さんへ。ただ港さんは演劇をすごい観るわけでもないので、作品に対する批評みたいなこととまたちょっと違うかもしれないけど、でも自分で批評書くわけなので、そのときに誰に向かって書いてるのかとか、どういうつもりで書いてるのかとか。

港:それは自分でもどうなんだろうって悩んでるんですけども。さっきも自己紹介のときにも言ったんですけども、本当に好きだな、って思ったことについてすごく書きたくなる性質で。好きだなって思ったことを、どうして好きなんだろうなあ、とか思う。好きなものと関わりたいとすごく思うんですよ。その対象がただバラバラなものとしてあるんじゃなくて、ほんとにその世界観に入って遊んだりとか、その世界観が持ってるものについて、どんどん突き詰めて行って、すごい高みというか、「ここなんだよね」みたいなそういうところに、勝手な自己満足かもしれないですけど、そういうところまで上り詰めて行ってみたいと思うところがあって。で上り詰めたら自分は、自分としてはすごく「良いものもらったな」ですごく満足するんですけど。じゃあその良いものをみんなにわけてあげたいな、って思う。じゃあそれをどう伝えればみんなにもわかってもらえるのかな、っていう風に書くのが、批評かどうかはわからないですけど。作品とかアイドルとかもそうなんですけど、好きなものに対しての関わり方はそういうものですね。でも一人遊びでも出来るんですけど。(笑)出来ちゃうんですけどでも、それをまた外にも出したいという風に思ったら批評が出てくるっていう感じですね。

山﨑:港さんが書いたものを読む人として想定されている人がもしいるとしたら、同じ観客というか仲間の立場の人に読んでもらう?

港:誰でも良いですね。誰でも良いから誰かに関わってもらえたら、つながるじゃないですか。

松井:港さんが好きなものを、好きじゃないと思ってる人たちについてはどうですか?

港:一生懸命ラブレターを渡すんですけど、全部返ってきて、「あぁ…」みたいな。(笑)

綾門:(笑)とにかくラブレターは渡すんですね。

港:渡します、みんなに渡します。返ってきたら仕方がない。長い人生の中でどこかで関わってもらえたら。(笑)

綾門:長期的な視野で。

港;そうですね、人生レベルの視野で。

田上:純粋な質問ですけど、「すっげー面白れーっ!」て思ったときと、「なんだかなぁ…」ってなったときと、どっちにしても両方とも批評書きなさい、って仕事来たら面白いって思ったもののほうが筆が進むんですかね?

綾門:それはそうなんですけど、でも「んー??」てなったときも、箸にも棒にもかからない「んー??」と、すっごいむかついた「んー??」があって、そのすっごいむかついたときのほうは筆が進みますね。だからその作品に感じた違和感っていうのが、クオリティのことなのか、それともすごくクオリティが高いのに自分のどこかの琴線に触れたのか、っていうのがありますね。

山﨑:逆に完成度としてはそんなに高くないけれども、すごく面白いところがあるのを見つけてしまった、というときのほうが書きやすいこともありますよね。例えば僕は「地点」という劇団がすごい好きなんですけど、でも地点についてはなかなか書けない。毎回すごいなと思う。だからそういう意味ではすごい好きなんです、好きだしすごいなって思うけれども、言葉にはすごいしづらい。っていうものもある一方で、上手くは行ってないけれども、面白いところがここには準備されているから、そこをきちんと言葉にしてあげなければいけない、っていう気持ちになって書くこともあるので、まあ作品とか対象によるかなというのが僕としては正直なところですけれども。

田上:すごい仕事だな、と思って。好みに関しても、見方としても、性格的なものもあるでしょうし。それを言葉にするっていう。さっき松井さんの言葉で言えば、すごい「枷」をね、背負って仕事をするっていうときに、どうやってまず一歩が出るんだろうな、っていう純粋な興味ですね。

松井:その面白いっていう基準は、どこから来るのかというか、どこに行くのか。書きたいって思う、面白いから書きたいけど、でもじゃあその面白いものの先に何があるのかなって。

山内:例えば予想としては、その価値みたいなもの、自分にとっての価値みたいなものを、言葉で捕まえたいって言う欲求だと思うんですよ、おそらくは。言葉でうまく捕まえる。大体の言葉はクリシェに陥っちゃうじゃないですか。そうじゃなくて見事に価値が言葉に出来たっていうのは、自分だけの喜びになるのかな。それともそれは、「これはかなり届くぞ」とか、射程の深いもの、大きさ、言葉のパワーみたいなものが欲望にあるんですか。

山﨑:いや、さっき何で書くのか、誰に向かって書くのかって話だったんですけど、僕個人としては、最初に書き始めた動機としては「怒り」なんですよ。何かというと、演劇を観始めたときに、ちょうどチェルフィッチュがすごい盛り上がってきてて。『三月の5日間』の再演とかの時期から僕は演劇を観始めたんですけど、みんなすごい面白いって言ってるけど、何が面白いのかが聞いてもわからない。何回か観たんだけど、なんか面白いような気もするんだけど、でもなんだかよくわからない、っていう気持ちがすごい強くあって。演劇ってそういうことがすごい多かったんですね、僕の最初のほうの体験として。で、いろんなところの文章読んでもなんだかよくわからない。そのフラストレーションを解消してくれない。なのでさっきの射程の話で言うと、そういうのを解消出来るような言説があると良いなと思って書き始めた。観てない人だけじゃなく、面白くないと思ったけれども、ここに面白いところがあったんだ、っていうことに気づけるような言葉がもっと無きゃいけないんじゃないのかなと思ったんですよね。だからそういう意味で言うと、僕は自分が批評だと思って書いてるものに関しては、価値判断を一切してない。そもそも書いてる時点で価値判断は入ってるわけですけど、面白かったとか良かったとか一切書かないです、僕は。そうじゃなくて作品がこうなってるっていう話で、それこそ綾門くんがさっき作品分析と言ってたこととぶつかるというか。僕はここがこうなってこうなってるっていう説明で終わっても良いと思ってるので。

綾門:先ほどの話、分析の話とかに戻りますけど、僕が一番最初に批評に興味を持ったきっかけって、豊崎由美さんって書評家の方なんです。豊崎さんは批評家ってよりは、「この本は良いよ」ってことと、「この本はマジでクソ」っていう、その二つの話しか基本的にはしないんですよ。「がんばれ」と「死ね」しか言わないみたいなところがあって。

全員:(笑)

綾門:いやまじで読めば「死ね」って言ってるのがわかると思うんですけど。(笑)僕は最初に興味を持ったのがそれってこともあって。豊崎さんに限らず映画でも、音楽の分野でもそうですけど、熱烈に推すのと「これはまじでダメだ」っていうジャッジを下すひとがいますよね。僕結構そっちのほうに興味があるんです。いまの山﨑さんの立場もすごくよくわかるし、そういう批評家の方ももちろんいっぱいいて大切な仕事っていうのはわかっているけれども、自分が出来ることってなると、たぶんそのOKかアウトかっていうジャッジみたいなものを精密にしていくことの方に興味があるというか。面白いものを「いやこれ面白いんだって!」って誰かに推薦する、誰かに話したいっていう欲望のほうが強いんです。でもその話したいときには、「まじで面白いから行けって、俺が金払うから」とかそういう言葉ではなくて、その人がすごく納得して足を運ぶ、っていう風にその人が納得させられる言葉を、自分の言葉から導き出すことが出来るかっていうことに興味がある。

山﨑:いまの綾門くんだったら、批評家としては駆け出しなわけで、それはアリなスタンスだと思うんだけど、一方で山内さんの最初のほうにおっしゃった権威と結びつくということについて。もしずっとやっていくうちに「この人の言葉は信用できるな」みたいな人がいっぱい集まってきちゃうと、いわゆる信者みたいになっちゃうわけじゃん。そうすると妄信されてしまうという可能性もあって、だから危険と表裏一体な気もするんだけど。

綾門:そうですね。だからそれはやっぱり、ジャッジが絶対に流されないようにするってことですよね。例えばいろんな事情とかがあって、誉めないといけないとか、けなさないといけないみたいな事情が出来したときに、絶対にそれに流されないってことであるとか。最初の仕事の輝きみたいなものを失わないように、ずっと細かい努力を積み重ねて行くしかないのかなっていうふうには、そのあたりは思うんですけど。

松井:でも流されない基準を、自分で批評の外に持とうとしない限り、書き始めたときに、流されないつもりが流されてることはあり得るじゃん。

綾門:あり得ますね。

松井:だとしたら、その根本、要するに謎に向かって書く、っていうさっきの山﨑さんの話、その根本に好きだっていうその基準の更に先があるのか。ただ自分の謎っていうものを研究してくと、いくつか出てくるテーマみたいなものがたぶんあるのかな。印象を言うにしても。

綾門:逆に山﨑さんもし、すごく嫌いでかつクオリティも低く箸にも棒にもかからないものについて批評を書くときって、どういうスタンスになるんですか。

山﨑:全然ダメだと思って、光るところもないと思ったら、触れない。「何がダメ」って言えるときは、何か良い部分、可能性があって、それに対してここが上手く行ってないから、ここをどうにかすれば上手く行くっていうことがあり得るけれども、全然ダメだと思ったときは、どうしようもない。語るところがないってことになってしまうから。自分はまだそんなに仕事としてやってる量が多いわけではないから、いまのところそういう事態には陥ってないけれども。

田上:うわー、語ることないって言われたら立ち直れないっすねえ、死の宣告。(笑)

全員:(笑)

山﨑:だからそういったものについては「語ることない」とすら言わないです。

田上:ゼロじゃん!

山﨑:だって他の人から見たら面白い部分があるかも知れないのに、自分の好みでこれは全然ダメっていう風に発信するのはやっぱりちょっと違うと思うので。

山内:全然関係ないけど、「でもあいつ良いやつだよね」とかそういうのは無い?

山﨑:それ、批評じゃないです。(笑)例えば、松井さんについて自分は、ワンダーランドで最初批評を書いて、それに対する応答をもらって、そのあと美学校で『革命日記』のアフタートークなど、割と頻繁にご一緒させていただいたんですけど。そこで個人的にはあんまり仲良くなりすぎないようにしなければいけないという危機感は常に持ってて。もともと自分は「知り合いだから」って手加減したりする感じでもないので、関係ないと言えば関係ないですけど。仲良くなりすぎると何かダメだった時とかに…、ってすごい失礼な話ですね。(笑)

松井:いやいやいや、それはありますよ。

山﨑:ダメだって言えなくなってしまうと、批評家としてアウトだと思うので。

田上:それ結構オーソドックスな考え方なんですかね?人によるんでしょうけど。扇田昭彦さんの昔のやつとか読むと「太田省吾の海外ツアーについて行ったんだけど…」みたいな一文があって、「これ大丈夫?」みたいに思ったことがあって。

綾門:でもそれはついて行かないと書けないことだから。

田上:まあ事実としてはそうだけど、結局内容に触れて行くなかで、読み方もそれは人それぞれでしょ?いまの話聞いてて、適度な距離があるっていう人に対して安心感を持って読む人がいたとしたら、「私は一緒に同行した」って書いてあったら、「おや?」って思うわけでしょ。

山内:でもさあ、海外で公演やって一つも言葉が残らないって、ものすごく空しい。青年団の海外ツアーとか、日本のコンテクストで評価されたこともないですし。まあ無いとは言わないけど。

松井:コンテクストって面白いですよね。

山内:もちろんフランスでアーティストに対する敬意や、日本のコンテクストとして紹介されて評価されることもあったけど。僕は言葉が欲しくて批評家が同行するってことは悪いことじゃないと思うけどもね。同行することで引く、ってのはわからんでもない。

田上:いや引くではなくて、そういう人がいたときに、文しか読めないから取り方は人それぞれだなと。

山﨑:それこそ書いた文で判断してもらうしか、そこに批評家としては賭けて行くしかないですよね。

田上:読者が文章を読んで何が内側に沸き起こるかなんて未知数なんで、それを元に何か劇を観に行こうという人もいるし、客観的にこういう見方もあるんだなっていう風に再発見する人もいるし。

田上:結局僕らも批評される側としては、好きな批評みたいのもあるわけですよね。好きっていうとあれですけど、こういう風に作品を観る見方をする人の文章読むの好きなんだよな、みたいな、逆にこっち側からの批評の好みみたいなのを発見することがあるんで、「対人(たいひと)」だなって感じがします。

山﨑:逆にどういう批評が、ビビっと来るんですか?

田上:すみません話戻りますけど、淀川長治さん的なやつのほうが好きです。

(3に続きます)