映画美学校アクターズ・コース ブログ

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映画美学校アクターズ・コースの公式ブログです。アクターズ・コース俳優養成講座2023、9/1(金)開講決定!

「役者」という矛盾したできごと

『美学』の舞台はプロの漫画家を目指すための専門学校。この公演は映画美学校アクターズ・コースに通う生徒たちによるものであり、並行性はスタート地点から明らかだ。公演中、彼らは修了創作に取り組むことになる。それは漫画コンクールに応募する作品の制作。この制作手法がちょっと変わっており、8人の生徒全員で1つの作品を作り上げるのだという。漫画学校に通った経験がないので実際のところはわからないが、修了制作といえばふつうは単独で行うものだろう。この疑問はさしあたり次のように解釈しておくのがよさそうだ。漫画学校におけるリアリティの優先順位はさほど高くない。ポイントは個人ではなく集団での制作を取り上げることにある。さて、表現者を志す8人がそれぞれの「美学」を持ち寄り、ぶつけ合うとき、そこでは何が起こっていただろうか?

厳しいスケジュールのなかで生徒たちが打ち合わせをしていると、前田(藤井治香)の父親が倒れたという知らせが届く。実家へ帰ろうとする前田に噛み付いたのは、対面デッサンの授業で自分の漫画の「線」が見つからないと騒いでいた小林(田村幸大)だ。漫画なんていつでも書けるじゃないかと諭す周囲に小林は、俺はそんなモチベーションの人間とは一緒にやれないと突っぱねる。しかし、ひとり学校に帰ってきた小林は事務員の橘(裕木つゆ)に、自分には書きたいことがない、線もやはり見つからないと打ち明けるのだった。

ひとくちに専門学校といっても中身はバラバラ。資格や専門知識の取得を目的とする実学系のスクールも多いことだろう。それに比べて漫画学校、もとい映画美学校という空間の足場はおそろしいほど脆く、弱々しい。資格のようにわかりやすいゴールは設けられていないし、修了がそのまま職業に結びつくわけでもない。社会的なステータスとはまったく無縁の場所。そんな学校にあえて通ってくる生徒は、受講を決める以前から自分なりの「美学」を持ち合わせているにちがいない。アクターズ・コースであれば、人一倍、役者になりたいという思いがあるはずだ。しかしひとたび入校すれば、自分の考えが甘かったことに嫌でも気付かされる。技術も熱意も同級生にとうてい及ばないとわかってくる。埋没していく自分の「美学」。本当にこんなことを望んでいたのだろうかという疑いの気持ち。漫画の「線」を見失った小林には自らを奮い立たせる必要があった。そのせいで同級生を振り回し、さらなる自己嫌悪に陥ることがわかっていたとしても、である。あらゆる空間がそうであるように、この学校でもその場固有の闘いが繰り広げられていた。それはスクール・カースト型の抗争ではなく、『ファイト・クラブ』の世界に近い。

創作のあらすじは阿部(徳井汰朗)の「マジックおばあちゃん」と、高橋(吉岡紗良)による「離婚のち、アル中」の2案で争われていたが、合体したうえで主人公に原(長谷川佳代)のキャラクターを投影することで方針が固まった。どうにか前半までは進んだものの、各人のアイデアを無理矢理詰め込んだせいでそこから先の展望が描きにくい。初めに自分が考えていたイメージとのズレに耐えきれなくなった高橋は、皆が苦労して作った原稿を破り捨ててしまう。だが、非常勤講師の宮崎(二宮未来)は物語はすでに高橋の手元を離れているとし、後半もこのメンバーとあらすじで進めていくことを確認する。

小林のように「線」を見失う者もいれば、高橋のように「線」が曲がっていくことに耐えられない者もいる。役者がいかに自らの「美学」に忠実であろうとしても、集団制作のプロセスでそれは何らかの変形、もしくは棚上げを余儀なくされる。舞台はここに至って、役者という存在の原理的に矛盾した様態を浮かび上がらせたように思える。すなわち、「美学」を持たない者が演技を志すことなどありえないという事実の一方で、「美学」を持ちすぎた人間に役者は務まらないということ。私たちがプロの役者による公演を鑑賞してもこうした違和感を覚えることはまずない。おそらくは、そこに演技をすることへの戸惑いやためらいが少ないからだ。そう考えるとこの物語は、アクターズ・コースの受講生によって演じられて、初めて意味を持ったといえるのかもしれない。『美学』は表現の道を歩もうとする者たちを見守るドキュメンタリーであると同時に、他では成立しない形で、役者というあり方の引き裂かれた魅力に迫っていた。

 

赤羽 広行(あかはね・ひろゆき

批評家養成ギブス修了生。これまで扱った作品に、吉田大八『桐島、部活やめるってよ』、マームとジプシー『あ、ストレンジャー』、坂元裕二最高の離婚』、松家仁之『火山のふもとで』など。