映画美学校アクターズ・コース ブログ

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映画美学校アクターズ・コースの公式ブログです。アクターズ・コース俳優養成講座2023、9/1(金)開講決定!

「逢えない僕らの思うこと」 Vol.1 〜『シティキラー』対談、今話したいこと、残しておきたいこと〜

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映画美学校アクターズ・コース2019年度公演『シティキラー』の脚本・演出を担当したウンゲツィーファの本橋龍氏、今作のチラシデザインを担当した一野篤氏、映画美学校アクターズ・コース主任講師の山内健司氏により、3/27-3/30にかけて合計3日間に渡るZoom 対談を行った。

今回の公演にあたり広報の一環として受講生各人が見て欲しい人にチラシを手渡し、置きチラシをした記録を非公開で残す「okichirashi(置きチラシ)インスタログ」というちょっと変わった活動をしたので、それをフックに『シティキラー』について話しませんかという企画だ。

当初は京都府在住の一野氏を東京に招き、東京で対面した対談を予定していたが、対談予定日の前々日夕刻、東京都知事による緊急会見が行われたことにより状況は一転した。新型コロナウィルスの爆発的な感染拡大による首都東京のロックダウンを防ぐため不要不急の外出の自粛は要請されたし、と東京都による公式見解の発表。いわばこの公式宣言を受け、今回の対談もまた遠距離移動を避ける形でどうやって実現できるのかLINE グループによる関係者の話し合いを経て、多数話者の同時参加が可能な通話動画アプリ Zoom によるオンライン対談という形を試してみることにした。

Zoom による対談は実質準備運動にあたる初回を含め合計3回行われた。参加者は本橋氏・一野氏・山内氏に加え編集の中川による4名を基本とし、2回目以降は今作俳優部である受講生も数名自由に対談に参加している。

 

【『シティキラー』上演中止〜2つの映像作品について】

 『シティキラー』(作・演出:本橋龍)は映画美学校アクターズ・コース俳優養成講座2019(通称9期生)の修了公演として、2020年3月5日〜10日の上演にむけて準備されていた。公演3日前に主催である文化庁より新型コロナウィルス感染症の拡大防止に係る要請を受け中止となる。

http://eigabigakkou.com/news/info/11706/

 

中止決定の直後より路線を切り替え、「連ドラ版」と「上演版」の2種類の映像作品が生まれる。

<『シティキラー』『シティキラーの環』感想まとめはこちら> https://bit.ly/3cpeIKv

 

連ドラ版『シティキラーの環』は映像作家、和久井幸一をむかえ、15分×全8回の作品として再構成して、新規に撮影。Youtube にて配信、公開。(3/8.9.10撮影。3/11より公開。)

<第1環>

<第2環>

<第3環>

<第4環>

<第5環>

<第6環>

<第7環>

<第8環>

<Balchraggan (by John Somerville)> https://bit.ly/2VA775d

 

上演版『シティキラー』は舞台上演の記録映像として、映画美学校フィクション・コースの修了生たちによって、4台のカメラによって撮影。全編120分の作品として、Youtubeにて配信、公開。(3/6.7撮影。4/5公開。)

https://www.youtube.com/watch?v=_aHAiDaLFBI&t=584s

 

2020/3/27 13:00

東京都知事の自粛要請会見後2日後

 

前日に LIINE で試してみようと決めた Zoom 対談。

可能性や方法を検証するべく、操作性の確認から開始しました。分割された画面から時に誰かの画面共有を試し、各人の背景を眺めながらお喋り。この日はゆるやかに本題へ。

 

  • 僕らの間にチラシを置いて

 

本橋:この「okichirashi」プロジェクトのログを見直して不思議な気持ちになっています。それぞれの投稿に「この人が来てくれることになった」と書かれているけど、結果的にこのほとんどの人が見ていないわけです。だから今回は公演中止になった状況が含まれる話になりますよね。こういう状況でこのインスタを元に話をするというのは僕の中でつながるものはある。

 

一野:もともとチラシってどれだけ印刷しても実際に作品を観るお客さんはその一部ですよね。公演を見ていない人にとっては、チラシだけがその作品の印象として残るんじゃないかと前から思っていて。今回のような状況だと尚更ですよね。

 

山内:改めて、今なんでこの「okichirashi」企画をしたかと言うと、チラシや演劇を口実に人と会うことがいいと思ったんです。実際今回ログを見ていて、実際に人と人が会う演劇の上演と全く同じ役割をチラシが果たしてるなと思いました。今、国際的にも演劇の公演でチラシがこんなに配られるのは日本だけだし、ネットで十分という声もあります。でもチラシを口実に人と話すことができるのはすごくいいと思った。いくつか、特に印象的な写真があってチラシを間に挟むことにより、人の見たことがない表情や生身の人の体が、インスタの向こう側に浮かび上がっている。特に9期生の面白いところは、チラシを渡したい相手が日常的に劇場にくる人ではない人だったところです。その欲望が見えました。

 

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初回 Zoom 画面

一野:この企画によってチラシがあったほうがいいと改めて思い直せたことはデザイナーとしてとても嬉しいです。僕は自分の仕事が身体的に作用するかどうかはわりと意識しています。グラフィックは単に情報を伝えるだけのものではなく、フィジカルなもの・感触があるものだと。演劇の人と一緒にクリエイションをすることでグラフィックの可能性が広がる感じがします。

数千部、数万部の折込チラシだとマスメディアを扱っているという感じがしますが、このインスタのログを通じてチラシを人に手渡す行為を目にすると、プライベートなものに織り込まれていく実感が得られます。一人一人に手紙を渡す行為に近いというか。会えなくても、とかげの尻尾のように自分の分身を置いていく。それはフィジカルにものがあるからこそ発生する代え難い行為だし、それ自体も新たに身体性を誘発する行為だと思います。これを見て、届ける相手を絞っていく作り方もあるな、と。いまはネットを筆頭に他のメディアがたくさんある時代になり、なぜわざわざ印刷するのかがより問われています。だからこそクオリティがあがり印刷物の黄金時代がくる予感もある。演劇と関わりながら実験的にやれたら面白いと思います。

 

本橋:そういえば紙って食べると味違いますよね。上質紙はまずかったけど、藁半紙は甘みがあって食べられる(笑)。

 

一野:外国人からしたら海苔食ってるのも紙食ってるように見えるみたい(笑)。日本人てとりわけ紙が好きな国民性ですよね。家の建具とか日常的にもよく使われているし紙の種類も豊富で、普段の仕事でも紙選びにはエネルギーを相当使います。チラシはもういらないんじゃないかと思うときもあるけど、オンラインだけの告知だとちょっとつまらないところもある。そもそもオンラインのものって100年後に残るのかと考えると微妙な気がするけど、紙なら100年後も残るだろうと思える。

今こういう状況になってあらためて、物質としてないこと、フィジカルではないことへストレスを感じています。僕たちはいま何をできるのか。今この会えない状況で、置きチラシを介在させて人と人が会うことについて、フィジカルではない場所で話すこと自体が面白いと思う。

話を進めるにあたって、この対談にタイトルをつけてみるのはどうでしょう?

 

山内:タイトルは次までに考えてくるという宿題にしましょうか。そのプレゼンから次回キックオフということで。

 

本橋:いいと思います。この状況だから出てくる気がしました。楽しみです。

 

【okichirashi(置きチラシ)インスタログとは】

 毎年アクターズ・コースでは修了公演にあたって広報ワークショップというものを実施しています。定員数10名のアトリエでの公演に集まることができる観客の人数ははっきりと有限です。どんな客席だったらいいと思う?ということを立ち止まって考え、その人たちにどうやったら来てもらえるかを考えます。

今回のワークショップは去年の12月23日に実施され、9期生たちの誰に見て欲しい?という願いが、膨大な数の付箋に記され壁を埋め尽くしました。

しかし、例えば「この作品を見て救われるかもしれない人」という願いがあったとして、その人にどうしたら劇場に来てもらえるか、そのアプローチを広報として本格的にやるのは、途方もなく大変です。

そこでアプローチが難しいものについては、個人々々が地道に置きチラシをする、手渡す、それだけでいいじゃないか。でも各人がチラシを手渡した記録を、ログとして内部だけで共有してみないか、ということになりました。それがたくさん積もったら、何か違う風景が見えるかもしれなくない?

その記録が、非公開の okichirashi インスタログとなります。(山内)

 

【1回目を終えて】

ボリュームのあることを話すには普段と違うエネルギーがいる。普通の会話とテンポが違う。タイムラグ、音声・通信の中断、聞こえているか不安を感じる、気が散る要素が多く散漫になりやすい、映像ならではの間ができる。同時に、背景に各人の日常が写っているのは面白い(この日はスマホ参加の本橋さんの背後で今作舞台監督黒澤多生さんが洗濯物を干していた)。普通の対談と比較するとストレスを感じたり薄く感じたりするが、これはこれでラフに気楽に話せて楽しい。圧縮できないものもある一方で、情報は圧縮すれば濃い内容になるのかもしれない。慣れればノーストレスで会話できそうだからどこかのタイミングで、うまく話せるような時間がいつかくるような気がする。(編集:中川ゆかり)

 

2020/3/28 13:00

 

  • タイトルを間に置いて

 

一野:僕が考えたタイトル案は「逢えない僕らの思うこと」。「会う」ではなく「逢う」。なんかキュンとする方の字です(笑)。逢うことを絶たれてしまった状況で、会うこと、フィジカルなことがどういうことなのか、逆に考えるチャンスではないかと。この状況で演劇は可能なのか考えたいというのもあります。

 

山内:素敵ですね。僕は「人と人が会うということ」「ゴロっとものがある、ゴロっと人がいる」ていう案をもってきました。演劇は生身の人がやるものだけど、劇場では例えばホントに目の前でコンテンポラリーダンサーが無音ですごいエネルギーで踊っていても眠くなったりするような不条理なことが時にある。生身の人の重みを感じるのは実は簡単ではないのかもしれないと思ったりします。それはたぶんシアターという制度、人と人の向き合い方が人を眠らせてしまうところがあるのではないでしょうか。例えば突然目の前で事故が起きたら人や物のものすごい存在感が否応なく意識されます。そんな風にゴロっとものが見えるようになりたいというのが、僕が演劇で目指してることです。そのためには演劇とか演技はシアターという制度に一ミリも寄りかかってはいけないと思います。この「okichirashi」ログもゴロっと人がいるような感じがする。ゴロっとチラシがある。この感覚が僕の一番大事なことです。それは劇場で眠くなるとか、大量の印刷物としてチラシを漫然と眺めてしまうのとは真逆のことがここにある気がする。

 

本橋:山内さんの言うシアターの制度というのはどういうことでしょう? 演劇界の常識、共通感覚のようなものですか?

 

山内:例えば本当によくない人と人の向き合い方ですが、舞台の上はなにか恥ずかしいことをやったり、特別なものを見せつけたい人がいたり、やらかしちゃう人がいる場所。その一方で客席は匿名で影の中にいて自分がやらかしちゃう側になるとは夢にも思わない場所、とか。客席と舞台をそういう非対称的な関係性にしてしまうのは僕にとって退屈で仕方がないシアターという制度といえますね。でも今回は、広報ワークショップから「okichirashi」企画が立ち上がり、公演中止になり、「シティキラーの環」につながり…なんか人がずっーとゴロっと目の前にいるなーって考えたりしていました。

 

一野:言葉は違っても興味のある部分はすごく似てるのかなという気はしてます。中川さんは何か案はありますか?

 

中川:「“オン”ライン・ミーティング」とか考えました。「okichirashi」プロジェクトもそうですが、人と人とのラインを作る作業をいま ON-LINE でしている感じです。この“ ”は海外ドラマで欧米圏の方が会話中で人の言葉を引用するときにしたりするジェスチャーのイメージです。ちょっと揶揄的なニュアンスがこもったりもしますけど。“ ”の中は別の前置詞か、空白かもしれないです。

 

本橋:結構今の状況にしっくりくる感じもありますね。どれも。

 

山内:僕は「逢えない僕らの思うこと」が好きですね。優しく響くし、今のこの会えなさゆえの、肉体的な渇望がたくさんの人に届きそうな気がします。

 

本橋:「僕ら」が僕ら3人に向いちゃうように響くと、いろいろな人が関わっていることが隠れてしまうかも。

 

一野:じゃあタイトルは後に回しますか。内容にあってるものをあとで決めましょうかね。

 

  • 「作る」を間に置いて

 

山内:僕が気になってるのは一野さんと本橋さんの出会い方です。お二人は『シティキラー』の前から何作か協働していますが、何を原動力にしてるんですか? 

 

一野:きっかけは僕が本橋さんの作品を観たことです。もともと演劇には全く興味がなかったのですが、東京で仕事がある時にたまたま Twitter で評判がよかった本橋さんのソロユニット、ウンゲツィーファの作品『転職性』を観たらめちゃめちゃ面白かった。そのときに感じたものが僕の演劇への興味の原点なんですけど、その次の作品『自ら慰めて』もやっぱり面白くて、チラシに書いてあったアドレスに何か手伝えることあれば連絡くださいとメールして、そのあと直接会って、本橋さんの話し方とか、まとってる空気も含めて、なんか一緒に仕事ができそうだと思いました。ちょうど本橋さんも脚本集を作りたいと思っていたようで、その実作が最初の協働ですね。

 

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ウンゲツィーファ「青年童話脚本集」


一野:そのあと関西にも来てもらって、もし関西で公演をするならここが良いかもって場所をまわったりご飯を食べたりしながら時間を過ごして、脚本集を含め、何が一緒にできそうかイメージを共有していきました。

 

本橋:一野さんが好きなスペースなどを紹介してもらって一緒に場所を巡りながら色々話ができました。

 

一野:大阪では友人の集まるパーティーウクレレ弾いてもらって好評でした(笑)。

脚本集に関していうと、普通は頭からお尻までひとつながりの流れがあると思うんですけど、本橋さんはシーンごとにバラバラにしてもいいし、なんなら一冊の本じゃなくてもいい、と。本橋さんにとって大切なのは全体を貫く物語や筋の展開よりも、ひとつひとつのシーンであることが徐々に分かってきました。手製本だからできたのですが、この脚本集では、選ぶ本によって写真が挿入されているページや順番が異なります。そのため、シーンと写真は必ずしもリンクしていないですし、個体ごとに印象が変わるつくりになっています。中綴じ製本で、背からノドまで紙製のタグが貫通した作りになっていて、造本的にも面白いことができました。

 

本橋:1ページごとに紙の質感が違っていたり、ホチキスではない止め方なのですぐバラバラにできる感じがフィジカルでも面白いな、と。この脚本集を作る過程でも元々は電話やメールのやりとりだったんですが、直接会って話したいと一野さんが提案してくれて。東京から関西へ足を運んで、日々の生活の体感を共有しているのは協働にじんわり影響している実感があります。2日間みっちり過ごした関西滞在のうち、しっかりミーティングとして脚本集の話をしたのは実質2時間くらいですが、直接会って話すことでお互いに関係性を築いたことがすごい大きなことでした。よく覚えているのは奈良駅で飲んで別れたときに一野さんが「なんか今俺生きててよかったなって思ってる」って言ってたんですよね。

 

山内:それか。

 

一野:『シティキラー』のセリフになってますよね。覚えてます。まあ酔っ払ってたけど(笑)。

 

本橋:その言葉とかあの時の空気とかはなんだかすごく得難いものだったなと個人的に思いましたし、思い出したりしました。

 

一野:そういった時間や、打ち合わせ以外の時間がこの脚本集にはたっぷり入ってる気がします。本橋さんがどういう人かとか、言葉にできない部分がめちゃくちゃ大事だった気がします。

 

本橋:例えば僕と一野さんだと脚本集とか、チラシとか、演劇とか、間に一個挟んでいることでコミュニケーションの形ってすごく変わりますよね。こういうものづくりが間に入った上でのコミュニケーションが僕は好きで、それが僕は一番まっすぐ話せる気がします。『シティキラー』のメンバーとも作品を介してはすごく色々話せるけど、作品なしになると受講生の人たちと全然話せないかも。

 

一野:わかる気がします。一番自分が饒舌になれる分野というのは仕事かもしれません。デザインを介しての方が僕も話せている気がします。面と向かったコミュニケーションだけだと難しいことは多いですよね。ちなみに脚本集『自ら慰めて』には、制作時に考えたことや本の構造についての記録が付録として付いています。

 

山内:面白いですね。ウクレレデリバリーや関西に打ち合わせに行くフットワークも含めて、本橋さんの人との協働の仕方はやっぱり面白いなー。

 

本橋:僕は演劇をやる上で、3人で作るなら3倍にならないといけないという気持ちがあります。10人でやるなら10倍。ただどうしてもそうならないことはすごく多いので、ちゃんとその人数分の倍増ができるようにとはいつも心がけてます。

 

一野:他者と協働することで自分の思い描いてたものからは結構離れて行くことがあると思うんですけど、本橋さんはそういうものに対して許容できる状態で最初から真ん中に自分が座ってるように見えます。自分の思惑から超えたものにするためにゆるくしてる感じはあるんでしょうか?

 

本橋:そうですね。いつも思うのは、自分が創造/想像できるものは自分以下のものしかない。自分含むそれぞれが個人的に創造/想像するものではなく、もっと偶然起きたものや、わかんないけどいいというものを大切にしていきたいと常々思ってます。『シティキラー』は特にそうなった感触がすごくありました。

 

一野:僕もゲネプロを見て、過去の作品以上にそういう感じがしました。出演者の多さもあると思うし、全体として言葉で説明するのが難しい作品だなと。こんなにいろいろなことが起こっているんだとドラマ版の映像(『シティキラーの環』)を見ていて思いました。

 

本橋:自分がこれまで撮影に関わった作品で『シティキラー』が一番好きなんですけど、今までで一番出演者に対して演出的に言葉が少なかったですね、好きにやってくださいとしか言ってないと思います(笑)。

 

一野:逆になかなかできないことって気がしますけどね。

 

  • 『シティキラー』を間において

 

山内:今年も2月と3月に再演しましたが、青年団で26年にわたって上演されている『東京ノート』という作品に僕はずっと出演しています。この作品はフラグメント=断片を再構成していくような作りですが、初演時には「物語がない」と言われていました。演劇史的にいうと『東京ノート』はそれ以前の、物語の筋立てがはっきりあったオールドスクールな作りへの異議申し立てではあった。ヨーロッパでも同じ動きはあり、いまだにこの20~30年くらいこの方法が席巻しています。2019年に堀夏子さんが春風舎で演出した『東京ノート』の別の公演も、つなぎ方としてはカットアップ的な手法ですが、ある意味すごくメインストリームな感じが僕はしています。『シティキラー』の現場も似た感触を覚えました。ただ圧倒的だったのは、イメージ・直感・メタファーで連鎖していく、脳直でつなげていく感じですごく気持ちよかったです。オールドスクールの価値観では繋がっていないように感じても、ものすごく論理的に感じます。これの後は確かにこうだよね、と。脚本集にもついている「青年童話集」という言い方は合っていますよね。いわゆる神話や童話というタームを使っても説明できるかもしれないけど、本橋さんはそんなにそこは考えてないですよね。

 

本橋:考えてないですね(笑)。

 

山内:その潔さもすごく気持ちいいです。

 

本橋:演劇のコミュニケーションの取り方は現代のコミュニケーションの取り方が強く反映されていると感じます。主にチェルフィッチュ以降、モノローグを多く取り入れた手法やディスコミュニケーションな状況を色濃く反映した作劇が増えていて、その次がそろそろあると感じています。個人的にはそれは「雑談」だろうと思ってます。僕自身の日常でもありますが、一対一で真面目に応答し合ったり聞き合ったりするコミュニケーションというより、聞いているけどあんまり聞いていないような体感。それでも感情の変化や様々な機微のコミュニケーションは楽しんでいる。これはひろく現代、僕に近い世代のコミュニケーションの取り方だなと感じます。

 

一野:ある種の散漫な感じかもしれませんね。本橋さんの作り方は空間が多層的に作られているのがいつもすごく面白いなと感じます。『シティキラー』でも主な舞台となっているヤマミ荘、夢、雪山…いろいろなレイヤーが連続して現れて、見ていて頭の中が忙しくも面白かった。それによって立ち上がる感情が確かにあるという感じがします。ノイズをノイズのまま残しておく。いつもここでありながら、ここじゃないものがちゃんと存在しているということを思い起こさせてくれる演劇というか。それこそが「シティキラー」ということだと思うんですけど、見えないけど通過してるものを描くのは想像力だと思います。日常生活ではかなり意識しないとそういう感覚になりづらいと思うんですけど、それが多層的な演劇の構造によってすごく表現されている感じがしました。

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「シティキラー」場面写真


山内:例えば劇中で銀色の保温シートで雪山にみせたり、「ここは雪山だ」と宣言したりして観客が雪山だと思う。それは歌舞伎も含め演劇特有の嘘、「見立て」ですよね。でも今作にあるのはそうじゃないなという印象を僕も受けてます。それはさっき一野さんがおっしゃった、「ここじゃない場所が確実に存在している」ことへの意識というか。ここが雪山に見えることが大事なんじゃなくて、雪山というここではない世界が隣に確実にあるということが見える世界というのが、この作品の気持ち良さと説得力なんじゃないかな。だから本橋さんがアピチャッポンが好きというのはすごくわかります。

 

本橋:現時点で全作品を網羅しているわけではないんですけれど、『ブンミおじさんの森』と『フィーバー・ルーム』はめちゃくちゃ衝撃を受けた作品です。僕は新しいことをしようとかアートへの意識はほぼないんです。でも、ゼロ地点から、演劇、エンターテインメントをつくりたいという気持ちはすごくあります。アピチャッポンの作品を見ると、作家が素材を渡して受け取る人との間で完成される印象を受けますが、僕自身の創作でもそう思っています。人々の間に作品をおいて、完成させるのはそれぞれ。僕は僕、俳優は俳優、見た人は見た人で完成させる、というような作り方を考えます。その割には僕の作品では物語を用意してもいますね。素材だけをパッと渡すよりガイドや取扱説明書は置いておきたいという感じもあって。

 

一野:あくまで見る人を前のめりにさせるために物語はある、ということですね。本橋さんの作品は物語を話すだけでは作品を伝えることにはならないという感じがすごくします。その場にいないとわかんないという感じ。

前田司郎さんが今の新型コロナウィルスによる状況をふまえてこんな風にツイートされていて面白いなと思いました。「演劇の無観客上演ていうのは、無対戦相手試合、無読者読書みたいなもんで、そういう意味で、もうそれは演劇じゃないと思うのです。ただ演劇は自由で、演劇じゃない演劇も演劇なので、考え続けます。」これって、一般的に考えればプロレスには対戦相手と観客は別にいる。読書に関しても、読書している時点で読者がいるわけだから、言葉自体が矛盾になっていますよね。誰を観客に設定するかで作品への向き合い方は変わるんでしょうか。無観客で行う演劇上演は、演劇なんでしょうか? 大阪でも山本精一さんが無観客でコロナ撲滅のための絶叫ライブをされてましたが、ほとんどシャーマンというか、神様と自分だけの関係で成立しているようにも思えます。それは果たして「表現」なのかを今あらためて考えるのは面白いかもしれません。

 

本橋SNS で「無観客でやるのは演劇ではない」という発信はよく目にしますね。でも僕は意外と演劇には無観客に強度があると思います。というのは、演劇の稽古は無観客でありつつ観客がいると想定して稽古を行なっているので慣れているんですよね。例えばバンドやスピーチなどは、聞いている人がいる想定で実際のボリュームでの練習はあまりされてないんじゃないかな。『シティキラー』も関係者に向けたゲネ公開のみになりましたが、不思議な感覚はありつつも実は違和感はないかもなと思いました。

 

一野:ただその稽古はいずれお客さんが入る想定で行いますよね。いざ実際に入らないことになると、想定していたものが実施されないことってやっぱり大きいもののようにも思えます。

 

本橋:確かにそれは大きいんですよね。逆にいうと実はそもそも稽古に違和感は感じてます。なんなんだろこれ、て(笑)。

 

一野:稽古しない演劇ってあるんですか?

 

  • 「演技」を間において

 

山内:ありますよ、一回しかやらないものも。前田さんが言ってる演劇の自由というのはよくわかります。今でも神様に向けてやる演出、奉納というものもあるしそれも演劇だと思う。無対戦相手試合も演劇だよねと思ったりしますね。だから稽古場でお客さんがいないことについては、今日最初に話した演劇ってこういうものでしょというシアターという制度、認知の枠組みの問題という気がするかな。観客が入る前提での通常の稽古を経ていざ実際に入らない事が起きると俳優の体はノッキングを起こします。

でも今回に関しては、わずか七ヶ月間のコースではあるけど、俳優たちは観客との間に、劇場を間に挟むシアターの体と、カメラを間に挟む映画の体とを両方経験してきている。舞台『シティキラー』の映像記録はシアターの体で、『シティキラーの環』は映画の体で演じているように僕は見てました。ここを集団丸ごとでシームレスに移動できてしまうハイブリッドな集団て、日本ではそうないんじゃないかと感動していました。カメラを置いた演技というのは、僕も最初はどうやればいいかわからなかったです。カメラの向こうにいるカメラマンに向かってやればいいのか? とか色々考えてて。今もよくわかんないですが、中間報告としては「ここでちゃんとやるから」ということ。シアターではなく、とにかく、ここでちゃんとやる。そういう風にしか言いようがないんだけど、頼むからそれを撮っててという感じ。ちゃんとできたときは「今の撮っててくれたかな?」って思う。そういうつもりで、僕は今カメラと向き合ってます。

 

本橋:どういうことですか?

 

中川:山内さんのおっしゃるカメラ前での「ここでちゃんとやるから見てて」という感覚は私もすごくもってます。例えばインディペンデント映画の作り方でよくありますが、キャストもスタッフもお互いに交代しながらやっていると、割と自然に、そこにいる人・もの・場所もふくむ全員と一緒にここでやる、という感覚をもちやすいです。共演者とだけという感覚ではなくて、カメラも、カメラの向こうで撮影している人も、場所も、全部込みでここでちゃんとやる感覚。プラス、あくまでも理想としてですが、今は存在しないけど今後その映像をいつか見るであろう人の「いま」も込みで、ちゃんとやるから、って思います。全部がフラットといえばフラットだし、一つ一つ、一人一人の超いろんなレイヤーの時間をひとつのいま、ここにしたい、というか。とにかく今ここにいるんだっていう。理想的だし抽象的な言い方で説明になってないかもですが(笑)とにかくそういう風に映画の演技をつくりたい、やりたいと思います。

 

山内:うん。ただ演劇でも、その場にいる体が「現実とフィクションのあわい」という感じになるとすごいつまんなくなっちゃうよね。僕の感覚だけど、実際舞台に立っているときは、実際に立つ前に今からやる世界についてものすごいイメトレします。すーごいイメージしといて、そのことに自分で盛り上がっておいてからその盛り上がりを全部忘れる。消去する。そういうややこしいプロセスが一つ必要な気が僕はしています。演劇でいまこの体だけで、となると、どうしてもフィクションに飛べないんです。ぬるいお芝居になることが多いですよね。

 

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「シティキラー」場面写真

一野:役者さんて、例えば『シティキラー』なら、今演じてるのがアトリエ春風舎であるっていう現実の空間は意識してるんですか? 役の中の空間にいることを100%の状態にするのが理想なんですか?

 

山内:そのときはやっぱり完全にアトリエ春風舎にいるしかない。実際にいる場所やいる瞬間以外のことを考えちゃうと、それ以外のことを考えている人がそこにいることになってしまう。説明するとややこしいので繰り返しますが、あそこが(劇中の主な舞台となった)ヤマミ荘と考えちゃうと、「ヤマミ荘ということを演じようとしている人」になっちゃうんですよね、どうしてもね。劇場にいるときは劇場の中に直接いないと、面白く無くなっちゃうような気が僕はしています。なので僕はやはり準備が必要だと思います。その前の段階でヤマミ荘って何って考えたりとか盛り上がったりとか。その辺は人によって違いますが、一回そこをくぐっておかないとお芝居にならないような気がします。

 

一野:「ここじゃない架空のヤマミ荘に自分がいる」だとダメだけど、「今この場がヤマミ荘である」はいいんですか? 

 

山内:いや、「今この場はこの場である」くらいがいいんじゃないでしょうか。ヤマミ荘というワードは消えるような気がします。

 

本橋:人それぞれ、俳優それぞれによって考え方が違うものですよね。僕も複数回の俳優経験があり、三つの自分があると考えています。もとは役の自分と現実の自分の二つだと思っていましたが、いざやってみると三つあると。役の自分、現実の自分、もう一つその中間の「演技をしている自分」です。とある作品で、「お盆に乗ってるコーヒーをテーブルの上に置く」という演技をするんだけど、現実にはテーブルがなくて、代わりに床にコーヒーを置くっていうシーンがあって。この時の自分は役の自分か現実の自分かどっちだ? という葛藤があって。これが役と現実の間にいる自分、という感じです。

 

山内:例えば演出家に「そこセリフの前の間(ま)を詰めて」と言われたら間を詰めようとする自分、ですね。

 

本橋:そうです。そういう、演劇という外枠のレイヤーを自覚している自分も必要だなと。役の自分にも現実の自分にもそれぞれに近いけど、どっちともちょっと違う。これはあくまでも僕個人の感覚かもしれません。

 

山内:あると思います。

 

一野:なるほど、現実と演技の関係って面白いですね。

 

【2回目を終えて】

Zoom を介した会話に慣れてきた。この日は途中から受講生2名が聴講、途中で一人の口笛が聞こえてくる。「置きチラシ」ログの話にはまだ入っていない。でも、意識的にも無意識のうちにも、人と人の間に何かを置くことで起きる何かについて話し続けている。(編集:中川ゆかり)

 

(舞台写真撮影:かまたきえ)