映画美学校アクターズ・コース ブログ

映画美学校アクターズ・コース ブログ

映画美学校アクターズ・コースの公式ブログです。アクターズ・コース俳優養成講座2023、9/1(金)開講決定!

山内健司さんの「名物」講義「しゃべり言葉をしらべる」公開講座レポート

『渋谷ノート 2015』/アクターズ・コース第1期修了生 中川ゆかり

 

渋谷・円山町。映画のビル、KINOHAUSの地下では俳優、映画監督・演出家の講師の方々と共に学ぶ密度の高い、濃い学びの時間があります。3月6日(金)には4期を迎えたアクターズ・コースの公開講義(兼ショーケースの場)、『渋谷ノート 2015』が公開講義として行われました。

f:id:eigabigakkou:20150322141706j:plain

 

この講義は俳優の山内健司さんが企画・開発され、ご自身のWSでも様々な場所・人と一緒に行ってこられたプログラム。俳優はすべからく、他者の言葉をあたかも自分の言葉のように喋る仕事である。じゃあ、その他者の「しゃべり言葉を調べてみよう」という内容です。手順は次のとおり。

 

1.二人一組で街に出る。
2.街で見つけた気になる方にインタビューをお願いする。
3.交渉成立後、インタビュアー係はインタビュイーと会話をし、記録(録音)する。もう一人は、その間、インタビュイーとその状況を観察する。
4.録音テープを元に聞いた言葉を書き起こす。その際、音の形も書き加える。例えば高低、長さ・短さ、発話・発音の仕方、間…などなど。
5.書き起こした「他人の言葉」を台詞/戯曲とし、インタビューのシーンを稽古する。インタビュアーはインタビュアー役を、観察者はインタビュイー役を演じる。
6.発表する。
7.Another Story をつくる。「インタビュイーが他の誰かと話す時、どうなるのか?」を想像し書き、演じる。

 

戯曲や台本として言葉だけが与えられるところからのスタートではなく、実在の人物を目の当たりにし、演技者自身がテキストにするところからスタートするこのプログラムでは、演じること、あるいは人物と「ペルソナ」を様々な面から観察し考えていきます。

 

演じることは、時として「その人になりきる」と表現されることがあります。ですが、演じることとは本当に「その人になりきる」ことなのでしょうか? 

俳優のAさんはインタビュイーのBさんとは別の人間です。俳優でなくたって、「わたし」は「あなた」ではないという事実に直面する機会はたくさんあるでしょう。ですがこのプログラムでは実際に自分が出会い目にした人物を演じます。では、AさんはBさんの上手な物真似ができれば、演じることができたと言えるのでしょうか?
そもそも人が人を演じるということは、どういうことなのでしょうか。

 

ちなみに4期目にして既に名物というか必須プログラムと呼びたいこちらの講義、1期生である私も受講しました。毎年行われるうちに講義として年々バージョンアップしているようで、例えば7の「Another Storyを作る」というプロセスが誕生したのは2期生の発表時だそうです。フィクション・コース講師の西山洋市さん(映画監督)からいただいた提案でプログラムそのものが膨らんでいます。他の人と出会うことで、より練り込まれブラッシュアップされる。それはいかなる状況でも起きるものではありますが、様々な立場の作り手が集まるこの学校はそれが生まれやすい環境なんだなーと思います。

さて、今回は2人1組の計5ペア、総勢10名の受講生全員が演じる渋谷のインタビュー風景が現れました。
1組目は渋谷∞ホール前で見つけた吉本所属の芸人の方へのインタビュー。インタビュアーを4期生の長田修一さん、インタビュイー役(芸人さん役)は津和孝行さんが演じます。実演の前にGoogleストリートビューで場所を確認。続いてインタビュイーの服装や特徴、出会った場所や時間などの状況を、演技者ペアがまずは言葉で描写します。黒のハット、黒ぶちメガネ、黒のジャケットで色白でぽっちゃりしていてかわいらしい感じの男の方で……という具合。さらに受講生同士が質問をすることでその場にいる人全員が情報を共有できたかなーというところからいざスタートです。

実演1回目。津和さん演じる芸人さんは右半身に重心を置き、手を身体の前で組む、いつかどこかで見たことがありそうな芸人さんの立ち姿。どうやら所属事務所のランク入れ替え戦当日の一コマなのだそう。どこかそわそわ落ち着かない様子なのは、スケジュールを空けていたものの結局ライブに出演できなかったという悔しい時間を過ごした後で、ちらほらファンの姿が周りにある中でのインタビューだったから。インタビュアーの長田さんも気を遣い言葉を選びつつ、相槌をうっていきます。テキストにすると台詞は15個、切り取られたシーンはわずかに2、3分間でしょうか。

f:id:eigabigakkou:20150322163039j:plain


実演後、早速山内さんから演技者の二人への質疑応答タイムです。「どんなことを気にして演技していた?」という質問や演技へのテクニカルなツッコミを受け、演技者は自分の演技を振り返り、言葉にしていきます。このペアへも、インタビュアー側の長田さんへ「話し手への興味が薄れてるんじゃない? 喋ってもらえるように相手をもっと乗せようとするよね」と山内さんが問いかけます。ここで改めて、インタビュアー自身もただ自分のままでいればいいわけではもちろんなく、今ここに出来事を起こすべく演技をしていることを思い出します。

……演技へのテクニカルなツッコミって、少し分かりづらいかもしれませんね。他の例を挙げると、「今のはイメージを持つタイミングと実際に喋るタイミングがちょっと近かったよね」といったものもありました。これは、俳優が自分に出来事を起こすときに行う作業に関わる内容です。人は喋る時「喋りたい」欲望のもとになるイメージを持っています(と考える俳優もいるのです)。そのイメージが生まれる瞬間と発話するタイミングって、実は結構ずれているもの。体感したことがある方も多いのではないでしょうか? イメージを持つタイミングや強さが変わると喋る言葉の密度や表情も変化します。俳優は自覚的にイメージの位置を動かすことで、喋る言葉の質を変化させる作業もしています。とまあ、言葉で伝えるのはなかなか難しいものですが、さらに細かい話は企業秘密……なんつって。

もちろん、観察対象は言葉だけではありません。インタビュイーは各演技者それぞれが街で見つけた任意の対象ですが、外見など物理的な要素にピンときたという方がほとんどだそうです。その人物の特徴が印象的であればあるほど、特徴が掴みやすく物真似もしやすいはずです。
人物の身振りや行為を観察し、自分の身体で試してみると、多くの場合、そのようにふるまう理由や背景は少しずつ想像できるようになっていきます。特定の状況に置かれた一個人の振る舞いは、その人物ならではの個性や魅力として他者の目に映るもの。
俳優は通常、台本だけが渡される場合のように言葉だけが先に与えられる時、台詞やト書きといった文字情報を頼りに演じる役柄の、その人物ならではの癖や振る舞いを身体化していきます。つまり、今回はその逆の手順です。俳優にとって実在の人物を物真似するということは、その人物が置かれた場面や彼/彼女のパーソナリティを具体的に想像し、情報として蓄積するために使える一つのプロセスなのです。
津和さんもインタビュイーの芸人さんがポケットにやたら手を突っ込むという仕草をはっきりと覚えていましたが、実演では取り入れていませんでした。仕草をなぞるだけではなく、あくまでもそれが起きる基をしっかり作る、ということが肝ということなのですね。

そんなやり取りを経てもう一度実演。ナイーブな話題に気を遣いつつ盛り上げようとするインタビュアー長田さん、それを受けて、津和さん演じる芸人さんも調子に乗って答えていきます。1回目より生き生きとした2分間、出来事が起きていました。シーンを作るって、演者同士の恊働作業なんだと実感できる瞬間です。

f:id:eigabigakkou:20150322162931j:plain


その後は Another Story へ。Another Storyは、インタビューから着想を得て演者ペア自身が書いたフィクションです。シーンはインタビューの時間とは地続きではなく、インタビュイーが別の場所で、別の時間に、別の人と話すときを想像したもの。このフィクション、どのペアも現実味があり書かれた台詞も、ふるまいも「ああ本当に、こういう人いるよなあ」、「この人が他の人といるとき、きっとこういう風に関わるんだろうな」と信じられるものでした。
長田さん&津和さんペアが演じたのは、芸人さんが自分が出演できなかった当のライブに出演した同期との居酒屋での一コマ。同期役の長田さんの手厳しいツッコミに反省する芸人役の津和さん。ちゃんとさっきと同じ人間が別のシーンにいるように見えたのです。

これは俳優自身がその人物の魅力や癖や特徴を見つけて、具体的に、身体的に掴むという過程を経たからこそのことのように思います。俳優として「演じること」への確信はまだもてなくても(もてると言いきれる日なんてくるのかな)、それでも自分が見つけたこの人物はこんな「感じ」という俳優自身が持ち得た感触には確かな手応えがあったのではないでしょうか。人物に少しずつ近づいてるという実感が、俳優自身が演技をする根拠であると同時に、彼らのパフォーマンスの説得力にもなっていたように私には見えました。インタビュー録音を書き起こし、言葉の内側と外側を細かく細かく分析していくと少しずつその人に起きていることがぐっと具体的に見えてくるのですね。

(余談ですが、4期生は全ペア、切り取ったシーンがどれも巧みでかなり笑えました。存在感に説得力あってしかも面白いって、同じ演技者として想像してみると悔しいし羨ましかったんですけどね。)

f:id:eigabigakkou:20150322141623j:plain


私はほぼ初めて4期生の方々が演じる様と講義に参加している姿を見たので、彼ら自身のパーソナリティは全く知りません。が、一人一人が彼ら自身じゃないものになっていること、演技の過程にいることがはっきり見えました。また、パフォーマンス前後の山内さんと受講生の会話や返し稽古を通じて、一人一人が自分の演技やアプローチを語る言葉を掴んでいることにも驚きます。超もりもり盛り沢山の講義は一部駆け足にしても3時間強というボリュームになりました。

前述の通り、俳優の作業にはいくつか段階と過程があるように思いますが、この講義で受講生である俳優たちがじっくり取り組むことの一つはリサーチの部分です。
まずはその人物=役を探ること。具体的な言葉やふるまい、人との距離感や視線や立ち位置を通じて、あるいはそういったものから固有の傾向や文脈を想像し、その人物を知ろうとします。この人はいったい誰なんだろう、どんな人なんだろうと問う姿勢を実践することです。
そして二つ目。そのように見つけた演技の素を土台に、その人物=役へ文字通り、手を伸ばします。これは情報を身体化する作業であり「演じること」へ向かう道のりです。この過程で、俳優たちは自分のパーソナリティや自分自身がもっている傾向や文脈などに気づき、演じる対象との違いも発見していきます。対象であるAそのもの、あるいはAをとりまく具体的な世界について、これは自分にとってどういうこと/ものなのか? と訪ねていく。山内さんはこの過程を「Aってなんだ、ということに分け入る」と表現します。どうやってAと自分を切り結んでいくか。自分の側に引き寄せたり、距離があることに気付いて遠巻きに眺めたり。延々終わらない気づきや対話の過程をふまえ、自分の身体を使って「演じる」ことを実際にやってみる、というのがその次の作業です。公開講義では、この最後の部分をオープンな環境で試す時間となっていました。

この講義の目的は、人の言葉を上手く真似をすることでも正確に再現することでもありません。プロセスとしては観察して物真似をする、いわゆる完コピにも取り組みます。さらに厳密に言葉を探れば、「再び(あるいは何度でも)現れさせる/現れを起こすこと」は俳優の仕事と言えると思います。が、この講義で目指されているのは、自分じゃないものへ近づくこと。他者に近づき、自分の身体で表現をしてみるプロセスそのものです。それはむしろ、物真似と演じることとは何が違うのかを考える過程でもあります。他者と自分との間を往還するうちに、一つの像が現れるとき。その時こそが、きっと存在しない人物=役が立ち上がる瞬間なのではないでしょうか。
そのための準備を一つ一つ自分の身体で通過し、役/実現させたい像に向けて自分の手を伸ばすこと。そしてその経験の積み方を知ること。このプログラムは、稽古場に入る前に俳優が行う作業を身を以て学べる、本当に贅沢な時間です。

f:id:eigabigakkou:20150322141741j:plain


さて、唐突ですが、

俳優とは何をする人たちなのでしょうか。
演技をする人です。どこで? 舞台の上で、あるいはカメラの前で、人の前で、人々の間で。どのときも、絶対的にひとりで、人と関わり、働きかける。俳優とは、さも自分の言葉のように台詞を話す人々です。けれど言葉とは、そもそもすべて他者の言葉です。

舞台ですさまじい狂気をはらんでいる俳優・山内さんが演技や演劇は「もっと大きいものではないか」とよくお話しされるのですが、この講義からもそれを感じ取ることができます。それは例えば、「演技」を通路/回路にして、自分じゃないものを知る、という考え方です。正しい答えがある前提の「問い」ではなく、「訪い」や「弔い」として、他者へ関わり、働きかけること。俳優は、自分の身体を使って他者を訪ねる人だと、私もまた信じます。

アクターズ・コースの講義では、「俳優」を様々な角度から見ます。
俳優の演技術とは誰のために、何のためにあり、伝えられるのか。それは誰に、どこで、どうやって使うのか、使えるのか。多くの場合、その答えは作品を生み出すため、という前提はその通りだと思います。映画美学校はいわゆるカルチャースクールではありませんし、ここに集まる人も舞台の上やカメラの前、あるいは、人々の前で演技をする仕事をする、それを実現するために技術を知り、自分で育て、使えるようにする術を学んでいます。

ですが、それだけに留める必要もないように思えます。より大きなものとして演技を捉えていい。自分じゃないものに関心をもつときに「演技」がある、自分がよりよく生きる術として演技を傍らにもつ人生っていいじゃないか、と。俳優として経済的に・社会的に活躍することには直結しないかもしれないし、一見遠回りのように見えてやっぱりものすごく遠回りであり大回りかもしれない、けど、この回り道はでかすぎてシェイクスピアの言葉を血/知とし肉にできるかもしれない。自分を耕すという意味で実にカルチュラルな学び場です。平たく言うと、生きるって超おもしれー、ね、面白くない? と人に言いたくなるような、エンジンがぐるぐる、ギア踏んでぎゅんぎゅん上がっちゃうみたいな感覚に立ち返れるのは、いつでもこういう稽古場であり、学び舎なんだよなあ、と思うのです。
そんなことを思いました、という修了生の公開講義見学記でした。