アクターズ高等科・講師インタビュー(古澤健さん×竹内里紗さん)
左上:竹内里紗さん、真ん中:古澤健さん、右上:浅田麻衣
2021年3月末を以て終了した、アクターズ・コース修了生を対象としたアクターズ・コース高等科。その高等科のしめくくりとして、「せいかつ発表会」が開催されました。
発表会では、『断片映画創作ゼミ』『映画創作ゼミ』および『映画の生成過程を観察・体験する』の参加者たちのゼミ内での成果の発表を行いました。
今回のインタビューは、せいかつ発表会を担当された古澤健さん、竹内里紗さん、広報(かつ映画創作ゼミ受講生)の浅田麻衣で3人でお話をさせていただきました。
映画創作ゼミhttps://eigabigakkou-shuryo.hatenadiary.jp/entry/2021/02/19/171641
——『映画創作ゼミ』の企画は、お二人が話して企画されたんですか?
竹内 山内(健司)さんが「映画を作るゼミってどう?」って提案してくださった感じでしたっけ。俳優講師陣の方々がそういうことを勧めてくださったような。
古澤 (アクターズ・コース高等科の)年間の講義の内容を決める時に、結構早い段階で修了公演がないっていうのは講師の中でも決まっていたので、作品を作るような時間を作ろうっていうことだった気がします。
竹内 それで、じゃあ映画を作ろうかっていう。
古澤 そっちに重点を置くような流れだったと思います。
——竹内さんの方(『断片映画創作ゼミ』)で各々の断片的な映画は作っているけど、集団創作で作りたいっていうことだったんですかね?
竹内 そうですね、私のゼミも含めてそれぞれ講師ごとのゼミがあって、最終的にどこにたどり着くのか、みたいなところで集団での映画制作はどうかということだったと思います。今回演劇の公演は、コロナの関係で難しそうっていうのもあって、映画の方がもう少しその小回りがきくというか、可能性があるんじゃないか?みたいな話になって。
——今回、(映画創作ゼミの)第一回目の講義でもう班分けをして、さあ作ろうね、みたいな感じだったと思うんですけど。講師が監督してっていうよりは、アクターズ・コース生が作品を作るっていうコンセプトは最初から決まっていたんですか?
古澤 そうですね。一番最初は、何本作品を作るっていうよりは、撮りたい人は全員撮ってくるような感じはどうだろう?くらいに考えてたんですよ。出演はするけど、スタッフや監督の方には回れない人もいるだろうし、逆にスタッフをやってみたいっていう人もいるだろうし、そこらへんは自由にしようっていう発想だったんですけど。ただ一番最初に、年間の授業の構想を練る段階では、コロナの状況っていうのが改善しているのか、それとも変わらないのかっていうのが見通しが立たなかったんで決めかねていました。年末近くになってようやく、どういう形でやろうかっていう話を竹内さんとしましたね。で、その中でお互い意見を出す中で、3班くらいの体制で、それぞれに撮ってきてもらうっていう方向が決まりました。班ごとに一本ずつみたいな形はどうだろう?っていうふうになって、で蓋を開けてみたら、申し込み時点よりも参加人数が減っていたので、まあそれならば2班体制にしようっていうところに落ち着きましたね。
——実際‥‥どうでしたか?映画創作ゼミ。
古澤 どうだったかの評価は、僕らよりも受講した浅田さんの方から伝えてもらったほうがいいかなーと思うんだけど(笑)。講師会議でも振り返ったんですけど、やっぱり僕の中では、期を跨いで今回集まっているっていうところがすっぽり抜けていたというか。やっぱりグループで創作するとなると、何をするかとか何をやりたいかっていうこと以前に、その人の人となりっていうのをお互いに理解した上でこのチームで何をしようか、とかこのチームだったらどういうことを言えるのかっていうことを語る時間が必要だったと思うんですけど、ちょっと勘違いしてたんですよね。今回は半年を通してみんなが参加するのではなくて、半年の中でいくつかあるゼミを選択してみんなが受講するっていう形だったので、このゼミ自体が年度の最後の方にあるけれども、みんなにとっては「初めまして」の場でもあるっていうことが抜け落ちていて。なのでうまくいかなかった部分もあったんじゃないかな、という気はしています。そこはこちらの認識と準備不足だったなっていう気はしてますね。
竹内 そうですね。結果的にできあがった作品が面白かったからよかったねって終わらせて良いのかというところで、反省点が出てくるというところではあるんですけど‥うーん。私も皆を見ていて、映画を撮る時って何を作るかももちろん大事だけど、どうやってみんながアイディアを出し合っていくかとか、どう作品制作に関わっていくか、みたいなプロセスをすり合わせていくこともかなり重要になってくるなと改めて思いました。そういう意味では、上手くいかなくて大変だったとは思うけれどそういうプロセス自体を体験するっていうことも大事だったのかなって思って。演劇の稽古とかだと、演出家と出演者同士である程度時間をかけて共通認識を作っていきながらの創作になると思うんですけど、映画はそれぞれ役職が異なる人が参加していることが多いし、全員が集まるのも一瞬で時間がないことが多い。この大変さは、初めてだから大変っていうのもあるし、期を跨いでいるから大変っていうのもあるけど、根本的に映画制作によくある大変さだなとは、思いました。
古澤 よく映画にとって「演出ってなんだろう」っていう話をすると、キャスティングの段階でほぼ9割演出が終わってるっていう話があるんですけど。それでいうと映画ってやっぱり、準備でほぼ9割なのかなっていうか。それはちょっと伝え方が難しいんですけど。演劇と映画を比べる時って、演劇は稽古の時間があって、で、本番に向かうじゃないですか。で、それと比べると映画っていうのは本番の時に、その日に初めてロケ場所に行って、で、テストが何回かあるだけで、初めましての人とお芝居しなくちゃいけないから、何も準備ができないまま、っていう言い方っていうか比較のされ方がある気がするんですけど。
一方で、やっぱり監督の立場で言うと、その日にできることってほぼないんですよね(笑)。ちょっとした軌道修正、「そこ、大袈裟かなーっていう気がするから、ちょっと抑えめにいこうか」って言ったりするけど、根本的に俳優が台本を読んでキャラクターを自分で作り上げてきたら、それを根本から変えることって不可能だし。あるいは、演技指導って言い方あるじゃないですか。演技指導って、ありえないと思うんですよね。限られた時間の中で、全然芝居ができない人に「よし、じゃあ1時間で芝居できるようにしよう」なんてことできないし、ならやっぱりそういう意味でいうと準備の段階、キャスティングの段階である程度決まっちゃうなーって思うし。竹内さんが言った通り、それはキャスティングだけじゃなくて色々な準備をきちんとしていれば、その時間が一番大事なんだなっていう気がすごいするんですよね。
「映画の撮り方って何?」って問われると、「カット割りはどうするの?」とか「どう撮るの?」っていう話になりがちだけど、そういう技術的なことって実はそんなに大きい問題じゃないっていうか。知ってて損はないけど、知らなくても映画には絶対なるっていう。竹内さんの担当した『断片映画創作ゼミ』もそうだし、今回の『映画創作ゼミ』でもそうだけど、やっぱり、出来事から発想するっていうのが俳優の強みだなーっていうか。カット割り以前に、カメラの前で出来事を起こしてるっていうことで、それが映画になるんだっていう。それが映画の根本なんだなっていう気はすごいしましたね。
A班作品・スチール(浅田麻衣・宇都有里紗・小林未歩・深澤しほ)
——受講生時代も井川(耕一郎)さんの講義で撮ってみたんですけど、それはわりと1週間くらいですぐに脚本に起こせた記憶はあって。でもそれは2ヶ月くらい同期の子たちと交流があったからできたんだなっていうのを今回痛感して。今回のゼミで、Zoomを使ってミーティングは何回か重ねていたんですけど、抽象度が高いところから脚本に起こすまでがこんなに大変だったんだ!ってびっくりしてしまって。演劇だと、例えばワークショップとかオーディションとかで、「じゃあここはこういう設定で、こういう人物設定で」って言われたらみんなパッとやれるのに、なんで映画だとこんなに動けないの?ってある種新鮮な驚きがあって。「私はこういうの好きだけど、こういうのいいですよね」とかめっちゃそういう意見は出るのに、「じゃあどういうの撮る?」ってなるとシュンってなっちゃうっていう。
古澤 それは、逆に聞きたいのは演劇の時って、なんでパッと出るの?
——まず考えるより演じるしかないじゃないっていう‥‥演じてお互いを知るしかないっていうところが私はあって。で、そこから面白いのがあったらじゃあこれを本番に使ってみようか、とか思うんですけど。あの思考回路ってなんなんだろう‥‥。
古澤 やっぱり映画撮ろうって思うと、フィクション・コースでもアクターズ・コースでも「用意しよう」って思うのかな? 俳優同士が「じゃあちょっと集まってエチュードしようか」とか言うと(もちろんエチュードするにしてもある程度の準備っていうか題材とか決めなきゃいけないと思うんだけど)、「よし、ここで出来事起こそう」っていう感じで結構すぐにできる感じはするけど、映画の場合は「じゃあ今度の日曜日に撮影の予定にしよう。その前に、まず考えようか」ってなるのかな?
——そうですね、どこで、誰と、みたいなところが映画だと掴みにくいんですよね。演劇だと例えば「こういうメンバーが集まった、じゃあこのメンバーだとこういう戯曲もあるし、もしくはエチュードする?」とかすぐに段階を踏めるんですけど、映画だと思考停止するっていうのは‥‥なんなんですかね。
古澤 演劇の場合だと、例えば公民館に集まって、何人かが集まって2人1組で何かやろうってなったときに、「じゃあここは川っぺりっていう設定にしよう」「ここ公園にしよう」とか見立てて、そしたらもうすぐ始めるじゃないですか。で、映画の場合って多分みんな、「どうする?何撮る?どこで撮る?」って話になって、で、ちゃんと考えないと行き先も決まらないよね、とかそういう感じがあるのかな?
——ありますね。なんか、ちゃんとベースを決めないと撮れないんじゃないかっていう脅迫観念がありましたね。特に今回は。
古澤 そこが、実はずーっと、フィクション・コースにいる時もアクターズ・コースにいる時も超えたい壁として実はあって。個人的なことで言うと、フィクション・コース11期とか13期生と一緒に自主映画をやってる時に、何やったかっていうと、とりあえず「今度の日曜日に集まれる人」って言って井の頭公園に人を集めて、参加するひとがみんなカメラを持ってきて。で皆が「古澤さん、今日なにするんですか?」って「いやー、考えてないんだけど、ちょっと何かやろう」って言ってうろうろして、1時間くらい雑談してて「あ、じゃあ俺の高校時代を再現しよう」とか言って、「じゃあお前、高校時代の古澤ね」「お前、中山っていう後輩ね」って言って急に始めたんです。で、撮ってみて「あ、なんかそれ面白いな、この続き、こういうシチュエーションにしよう」とか考えて、「今日は色々撮れたから今日はおしまい、飲みに行こう」みたいなことを言って。で編集して、翌週とかに「あのシーンとあのシーンの間にこういうシーンがあるときっと面白くなるから、次は西荻に集合ね」とか言って、それで20分くらいの短編を撮って。で、今度はできあがったのを見て「あっこれの続編作れない?」とか言って。「未来から古澤がタイムスリップして過去の古澤に会いに行く話を撮ろう」とか言って、まあそういうふうに自主映画を撮ってたことがあって。
で、「あ、映画でもこういうことできるんだ」って感触があったんですね。そのシリーズは結果として3部作になって、3本目になると、所謂カット割りみたいなものもあるし、合成カットもあるし、映画っぽい映画なんだけど。1本目は、みんなそれぞれ受講生たちがカメラを持ち寄ってるから、僕が撮ってる様とかを撮ってたりとか、あるいは僕がちょっと外れてるときに、受講生同士が「ちょっと古澤さん、何しようとしてんの?全然さっぱり分からないんだけど」とか雑談をしてるのとかが映ってたら、それも本編に組み込んでやっちゃうみたいな感じで。ドキュメンタリー、メイキング映像と本編がぐちゃぐちゃに混ざりあってるみたいなものだったんだけど。それを何ていうのかな、自分の中での、まあ敢えていうけど成功体験というか、こういう形でも映画ってできるんだー、っていうのがあって。それをなんとか世の中に広げようとしても一向に広まらないっていう現実があって(笑)。『ゾンからのメッセージ』って映画も、初めは深田(晃司)くんと(鈴木)卓爾さんと僕とでそういう形でやろうっていうふうに。二人には僕のさっき言った映画を見せた上でやったけど、どうも伝わってなくて、結果としては卓爾さん一人で監督する形になって、僕が脚本をちゃんと書く形になったんだけど。だから、今回も自分の頭のどっかでは「カメラと人さえあれば映画はすぐできる」っていう思いがあったんだけど、まあそうはいかないんだな、っていう。やっぱり人が映画を撮ろうってなると、急になんか身体が動かなくなるっていうところはすごいして。そこは乗り越えたいなーっていう感じはすごいあるかな。
——うちの班も撮影10日前になって、もうヤバイってなってばーっと決めたんですけど。人数多いと厳しかったのかな?ばーっと決めた時にいたのが2人だったんですけど。その前までのミーティングではなかなか決まらなくて、ただだべってしまって。
竹内 でもそういう、ただだべった時間っていうのは、確実に、どういう形でかは分からないですけど、最終的なものに反映されているんだと思いますけどね。私も途中まで考えた企画を最後がらっと変えちゃったりしちゃうことあるけど、その手前で話してたことはやっぱりどこかに反映されてるなと思うし。あの時間なんだったんだろう?みたいなのは結構よくあることなんじゃないかなっていうふうには思います(笑)。
古澤 創作ゼミから離れるけど、竹内さんのゼミの『断片映画創作ゼミ』って、発想から撮影までってどのくらいのスパンだったの?
竹内 1本目を撮るまでは2週間から3週間くらいは発想する時間があったかもしれないですね。(断片の)4本なり5本を一つのコンセプトを持って取り組もうって話をしていたので、まずはそこを考えるところから始まって、1本目を何を撮るか決めるのに3週間くらい。そこからは1週間おきくらいですかね。1週間考えて次の1週間で撮る、みたいな感じでやってました。
古澤 それはやっぱり、こっちの『映画創作ゼミ』と違って、グループじゃないからっていうのはあったというか、違いって感じました?
竹内 確かに一人で撮るので何を撮るか決めやすいっていうのはあると思います。あとは、言葉にしてもらってて。毎回、一つの言葉とかでもいいんですけど、例えば「食に関する呪いの話」とか、自分が次にやりたいアイディアを具体的でなくてもいいから言葉にして発表する場っていうのを毎回作っていて。それは結構大きかったのかなっていうのはあります。抽象的な言葉でもいいんですけど、何か決まっていれば、具体が決まってなくても、撮る時に目的を持って取り組める、みたいな雰囲気はあったように思います。でも、そういった抽象的な枠組みですら、グループだと決めるのに時間がかかるんですよね。
古澤 『断片映画創作ゼミ』の場合は、自分が出て自分で撮るから、ゼミの中で発言はするけど他の人に遠慮とかはしないですよね。発表すること自体。
竹内 そうですね。
B班(齋藤暉・茶円茜・那須愛美・日向子)/茶円茜監督作品・スチール
古澤 B班の方は最初の打ち合わせとかは結構迷ってはいたけど、やっぱりそれぞれが撮りたいのを持ち寄ってやろうって感じだったから、そういう意味では早かったのかな。A班に比べて。
——そうですね、早くに決まってたと思います。
竹内 B班もオムニバスの繋げ方みたいなところで結構それぞれの意見が分かれてはいたんですけど。最終的に繋がる一個の話にするとか、ドラマ風に一話二話みたいにする、とか。でも話し合う中で、それだけ違うんだったらバラバラに撮ろう、みたいな感じになってましたよね。それは潔いなと思ったんですけど。
古澤 B班の打ち合わせの方には参加して、こっちもどの程度関与するか探り探りだったんだけど。オムニバスのような構成にするのか、それぞれバラバラにやるっていう方向性にするのかってなったときに、「とはいえ出ている人は同じだから、登場人物の名前は共通にしたら?」ってアドバイスはしたんですね。二つのものを繋げるときにコンセプトが一貫してないとくっつかないように見えるけど、共通のものがあると、それだけで意図などなくても一本に見えるみたいなものが映画の本質的なところである気はして。やっぱり皆は少し引っかかるんですね、「オムニバスでやるとしても、一本にするなら一本を貫くコンセプトを考えなくちゃいけないんじゃないか」って。「コンセプトを考えなくちゃ地獄」のスパイラルに陥ってしまうという。そのへんをぱっと乗り越えられるともっと気軽に映画が撮れるんだろうなっていう気はしますけど。
——古澤さんがA班の打ち合わせの時におっしゃってくれた、「動作をシャッフルして撮って繋げるだけでも、観客はそれを想像でつなげるから、映画になるよ」っていう話が心に残っていて。だからA班の映画もなんとかなるんじゃないかって小林(未歩)さんと話をしてたんですけど。A班の映画は基本無意味で非生産的な行動だけだけど、つなげてみたら「彼女たちはどこか遠いところからこの地に流れ着いたんだろうか」とか背景を考えて感想を伝えてくれた方もいて。観客の想像に委ねていいんだっていうのは今回撮ってて面白かったのはありますね。
古澤 B班の方はさっき言ったように、登場人物の名前を一緒にするっていう力技で繋げたら、それぞれバラバラに発想したものだけど一本の群像劇のように見えてきたところがあって。A班の方は同じ素材なのに、編集によって全部違った見え方がしたじゃないですか。だから、多分僕が最初に言ったことよりも、皆が編集してみたら「本当にそうなんだ」っていう実感があったということのほうが重要ですよね。繋げ方が違うことで、観客がそこに勝手に物語なりなんなり読み込んで、いくつかのカットが集積して一本の映画になってる感じがするっていうか。初めからやっぱり、構築した映画の像を発想しようとしちゃう癖っていうのは皆多分あって。そうすると、なかなか現場が始まらないのかなっていうのは思うかな。
——B班、ラッシュは全部見てたけど、最終的に全く別の作品が生まれててすごい面白かったです。自分たちの作品も、編集はすごいしんどかったけど楽しかったですね。3人がそれぞれ編集したので「あっこういう解釈ができるんだ」とか「ここ切ったんだね」とかそういうのをスクリーンで見れたのはすごいいい経験でした。
竹内 確かに。B班は撮りながらも、ラッシュを受けて脚本の順番を入れ替えたりとか、セリフを切ったりしてましたし、あと、編集の時もシーンの順番を入れ替えたりとか、最終的に落としたシーンもあったりとかもしてて。演劇にはできないじゃないですか。あるものを外側からいじるみたいな。順番を入れ替えたりとか。演劇とはまた違った映画の作品づくりの仕方、面白さみたいなものを、なんか分かり始めてるというか。「こういうふうにしたら全然印象が変わるんだ」みたいなことを毎回発見してる感じがすごいありましたね。
古澤 そうですね。昔、平田オリザさんの稽古場を見学する機会があって。その時に感じたのは、平田オリザさんの演出って稽古場でする編集なんだなーって思ったんですよ。僕らが編集室でやってることを稽古場でやってる感じ。もうちょっと間を詰めようとか、その場で、ワープロソフトで台本を表示しながらカチャカチャって台詞付け加えたり削ったりっていうのを、みんなの芝居も間とかを詰めながら同時進行でやっていて、それがすごい面白くて。
当時はそこが演劇と映画の違いに感じたんですよね。編集っていうのが創作のどの段階であるのかっていうのが。ただ、重要度っていうとどっちも同じなんだなっていう気がするんですよね。だから、映画の現場の本番っていうと撮影現場って捉えるんだけど、実はやっぱり作品としての本番って編集の段階なんじゃない?っていう気がして。そうすると、撮影の現場のトライアンドエラーっていうのをもっともっと気軽にできるといいんじゃないかなっていう気がすごいしてて。さっき言った自主映画のあり方ってそうなんだけど。そもそもなんで台本をきっちり作って、プランを構築して、撮影現場に臨まなきゃいけないかっていうと、(演劇でいうと小屋押さえるのと同じで)機材をレンタルしたりとか、皆のギャランティのこととかあって、集中的に1週間とか1ヶ月とか決めてやらないといけないのよ。要は商業映画っていうのが100年かけて経済合理性にのっとって現場を運営するためにそういうふうにするんだって発想だと思うんだけど。
そうじゃなくて自主映画で、iPhoneで撮って、出演者がスタッフを兼ねて、それぞれがバイトとか生活をしてるんだけど週末が空くからその日にやろう、って発想だったら「今週撮った素材はあまり面白くなかったけど、ちょっと面白いアイディアが浮かんだから来週集まってやり直そう」っていうのはもっとできる気がしてるというか。あるいは今週撮ったやつを編集して、見て「ああ、もう一回やり直そう」みたいなことをできるんじゃないかなっていう気がするんだよね。さっき言った話とまた今度は逆のことを言うんだけど。準備に時間を費やして、そこをきっちりやっとけば本番は1日だけで済むよね、っていうのが今までの撮り方とすると、そうじゃない撮り方もあるんじゃないかな。準備なんてしなくていいよ、とりあえず用意するのは人間とiPhone。で、撮ってみて「今週この小道具があったらもっと面白いものが撮れたかもしれない、よし、来週小道具を用意しよう」みたいな。そういう映画の撮り方みたいなこともできるのかなっていう気はするかな。どうしてもこう、監督目線っていうか、フィクション・コースの人の発想の仕方って、なんだろう、物語寄りなのかな、キャラクター寄りなのかな。出来事っていうよりはお話を語ろうとするというか、ある抽象的なテーマだったり、メッセージだったり、なんかそういうことなのかな。言いたいことをちゃんと考えないと発言できないみたいな。俳優はもっと、言いたいこともなく、とりあえず声出してみよう、とか身体動かしてみよう、とか原始的な、いい意味で子供っぽく遊べる感じがすごいするっていうか。そうするともう、出来事自体は本当にいくらでも起こせるから、それが何を意味してるのかなんか放っておいて、それを起こしてしまえばそれを撮ろう、ということが映画の人よりも発想しやすいなっていうのはすごいするんだよね。それはだからA班のを見てて、撮り方もそうだし編集のやり方を見てても、そう、こうやって映画なんていくらでもできるよねっていうような希望をすごい感じるものにはなったなーって思いますけどね。
B班/那須愛美監督作品・スチール
——そうですね。A班は「とにかく長尺回して撮ったら素材が集まるだろう」がコンセプトで(笑)。でも、現場で初めて4人が集まって、最初はやっぱり変な感じでしたけど、だんだんと「これ撮ったらいいかも」とか湧いてくるのが面白くて。あんなふうにラフに「あっ今あれ撮りたいから三脚持ってきて!」とかしたことはあまりなかったので、それは俳優がやってる強みなのかな、と思いましたね。‥‥あと、カット割りが。那須(愛美)ちゃんとも話してたんですけど、カット割りの概念が本当になくて、繋がらない!ってことが本当に多くて。現場で、割ってみるかーと思って割ってみたけど、使えない‥みたいなことが編集で多発して。
古澤 それ、浅田さんとかが話してたよね。うーん。僕はカット割りとかはどうでもいいと思ってて。さっき浅田さんが自分で言った通り、お客さんがそこって勝手に繋げちゃうもんなんだよね。例えば、A班で言うとラッシュを見たときに、たまたまラッシュの順番もあったけど、途中で夜のカットがあって、また昼のシーンに戻って、それは実際の撮影の順番とは違うけど、ラッシュが並んでる順番がたまたまそれだったから、そうすると一夜明けたように見えるというか、何日か経ってるように見えるねって小林さんと話してて。でもそれって別にそういうふうに撮ってるわけじゃないじゃない。本来カット割りってそういうものっていうか、「こういうふうに撮ったらうまく繋がる」っていうものじゃなくて、Aっていう素材とBっていう素材とCっていうのがあって、そのことによっていくつでも物語ってできてくるし。本質はあらかじめプランしたカットの並びじゃなくて、撮れちゃった素材をどう並べるかの問題でしかないから、なんか浅田さんの問題意識がどのへんにあるか正確には分からないけど、うまく繋がらないっていうのが、どうだろうね。
——多分ね、映画っぽいことをしたかったんです、多分(笑)。いわゆる「映画」って呼ばれるようなものを撮ったことがなくって。アクターズ6期の時もドキュメンタリータッチのものだったのでほとんどカットは割ってなくて。なのでB班みたいな、「パンがある」「そこに手を伸ばした」「食べた」でそれぞれ割ってみる、みたいなのを最初はやろうと思ってたんですけど、あっできない‥‥ってなって。それで先日の『フィクション・コースを知る』の講義で、初めて撮りましたっていう作品を見て、「えっなんでそんな簡単にカット割れるの?」「えっなんで割れないんですか?」ってお互いにびっくりして。
竹内 (笑)。確かにそれを考えると、面白いですよね。どちらも初めての映画制作のはずなのに。でもどっちの作品も面白かったですよ。フィクション・コースの方も、整理されちゃってるから面白くないっていうわけでは決してなくて。両コース、両方の面白さがあるなと思うんですけど。
——お互い初映画っていう観点に立って映画を見てみると、本当に違っててびっくりしました。
竹内 今でも私も(カット)割りを分かってない時、いっぱいありますよ。皆が見やすいようにすることが作品的に求められているんだったら綺麗に繋がるようにするけど、そうじゃなくてもいいんだと思ったら好きなところを撮るし、場合によるというか。それに私も、カメラマンに聞かないと分かんない時が結構あって。例えば1カット目と3カット目だけが自分の中で決まってて「1カット目はここ撮りたい、3カット目はここ撮りたい。でも間スムーズに繋げる方法が分からんわ!」っていう時とかは、カメラマンに何個かアイディアを出してもらって「ああ、じゃあこれかなあ」っていうことも全然あるし。古澤さんはどうですか?
古澤 僕はさっき浅田さんが言ったように、もっと若い時は「えっなんで分かんないの?」っていう立場だったと思うんで。分かっちゃうんですよね、分かっちゃうっていうのも変だけど。で、映画のカット割りって2種類あると思ってて。5分間の元々の出来事を、どういうふうに分割していくかっていう発想と、あと、編集する前はその出来事がトータル何分になるか分からないけど、ブロックを積み重ねていったら5分になりましたっていう発想があって。それって根本的に発想の方向性が違いますよね。あらかじめ5分の出来事を想定してそれを分割するのって、僕はどっちかっていうと説明的だなって思うんですよ。要は、起承転結があって、それをどういうふうに、どういう順番で情報を整理していくと人は起承転結を感じられるかっていうような発想だよね。もう一方の方は、ゴールを決めずになんか積み重ねていくみたいな感じで、で、「えっ、ここにたどり着いちゃった?」ってことがあると、僕はそっちの方が面白いなと思うんです。僕自身は多分、分割することはできちゃうんですよ。どういうふうに整理すると、人は見やすいかっていう。でも、自分は放っておくとそれができちゃうから、ささっと現場で段取りとか見ると、それがぱっとこういうふうにやれば伝わるなーと思うけど、伝わったところで、伝わることは面白さじゃないよなっていうことがあったりするから。なんとか違うものを見つけよう見つけようとはしてるんだけど、難しいですね。確かにゴールを決めずにやると、3カット目くらいから「やばい、全く何も伝わってない」っていうことがあったりする。
竹内 (笑)。そうなりますよね、あれ?みたいな。
古澤 うーん。でも頭混乱してきた時には、さっき浅田さんが言った通り、「これは、お客さんの想像を刺激するかどうか、だな」という。さっきのカットの位置関係がよく分かんないなーとか悩むこともあるけど、そのことが分かったところで、お客さんは別に楽しくないだろ、とか思ったら、そのことはもう考えないようにしよう、とか。そういうことはあったりするかな。だから繋がらないカットを目指そうとしちゃうところはあるかな。繋がらないっていうか、そこをあまり考えないというか。うーん。いや、でももっと簡単に説明できると思ったけど、説明始めると難しいですね(笑)。
竹内 そうですね、カット割り。でも最悪全部撮れるわけじゃないですか、引きで。一個ボンって置いたら。全部映るとこに置いたら全部映るから、そこから考え始めたら、どんな割りもプラスにしかならないじゃないですか。だからそういう気持ちで私はやってるかもしれない(笑)。
古澤 その時の「全体が見える」っていう「全体」っていうのが、人によって違うんですよ。
竹内 ああ、確かに。それはそうですよね。
古澤 鈴木卓爾監督の全体ってすごい広いんですよ。『ジョギング渡り鳥』とか、まあもちろん他の映画でもいいけど、見て欲しいんだけど、とにかく「えっ、あんな遠くから人来るの?」っていうところ、ロングがものすごい違うんですよ。「あっ、この人の芝居場って半径1キロくらいあるんじゃないか?」っていう。
全員 (笑)。
古澤 だから、今、竹内さんが全体をとらえるところに置けばいいって言ったけど、もしかして卓爾さんが全体を見えるところっていったらビルの上に置いちゃうかも。そうすると見えないんですよ。そう、引きの絵になったときに見えなくなるものもあるから。だから、結局それもわからない。全体わかるところにポジション置けばいいけど、その場合には手元の芝居は見えなくなるし、だから、うん。逃げ道はないんですよ。何やったって(笑)。
竹内 そこからどうする、はありますよね。全体を置いたら、落ちるものがあるじゃないですか。これが撮れない、みたいな。ってなったときに、じゃあどこに置いたらいいんだろう、とか割らないと撮れないとか、そういうのが出てくるから、だからまずは全部映るところ、みたいな意識っていう感じはありましたけど。逆に全部が映っているから面白くないから、どこを撮らないか(どこだけ撮ろうか)も考えられるし。でも確かに芝居場が1キロみたいなことがあったら、最初からそれ選択肢に入ってこないですよね(笑)
古澤 (笑)。
竹内 毎回その選択肢ないから、じゃあどこ撮る?みたいな感じにはなりますけど。
古澤 そういう時に例えば発想として、引きの絵をこうやっとけば出来事全体を抑えられて、ここから落ちちゃうもの、見えにくいものに寄っていこうって発想になった時にその時にやっぱり怖いなって思うのが、寄ってった絵がただ単に情報になることってあって。表情の寄りとか撮るんだけど、単にこの人がある出来事に対して喜んでます、悲しんでますよっていう情報になった瞬間に、映像がすごく貧しくなることって実はあって。それは手の寄りとかもそうなんだけど。本当は、例えば寄った画になった時には、引いた画の時には見えない肌のキメとかが見えるじゃないですか。その肌のキメが綺麗だね、とか、一言の情報に集約されない、ある豊かさというか。それを捉えることができたら寄りのカットは映画にとって意味があるなーっていうふうに思うんだけど。でも大概やっぱり、頭で割ったカット割りはさっき言った、5分間をどういうふうに情報として処理していくかっていうふうになると、本当につまんないし、一言でしか言えない、一言で言い切ってしまうような映画になってしまう。そこがまあ、難しいな、というふうに思うことかな。だからそういう意味でアクターズ生が撮ったカットがどのカットも面白いなっていうのは、そういう情報に集約されない、ノイズまみれというか、引きの画も寄りの画もどっちも整理されてないなっていうことか。
竹内 確かに(笑)。マジで意味がないっていうか、変わらないところがいいですよね。それはすごい思いました。
古澤 そうそうそう。
竹内 引きでも寄りでも特に。
——そう、寄ったのに画が特に変わらなかったんですよね‥‥。現場では、カット割るために手元撮ろうぜ!って言って撮ってみたんですけど、全然使えないんですよ。あと、なぜかずっと同じ場所しか撮ってなくて。同じ場所の引き、寄り、だけみたいな。撮影開始して3〜4時間してようやく「あ、回り込んで撮ればいいんだ」「撮る場所別にここだけじゃないじゃん」って気づいたんですけど。だからひたすらに貧しい映像が続く(笑)。ラッシュ見て愕然としました、面白かったけど。
古澤 前も言ったかもしれないけど、やっぱりそういうカットってだんだん撮れなくなっていくっていうか。学んでいくにしたがって、浅田さんの言うところの「映画っぽいカット」の撮り方って、だいたい勉強すればみんな撮れるようになっていって。荒々しい、野性的なカットって撮れなくなっていくんだよね。そのことの良し悪しってあるなーっていう気はすごいするかな。やっぱりどこかで理想とするのは、今この瞬間に動画を撮れる機械が発明されて、皆は渡されたら何を撮る?みたいな、そういうのを見たい気持ちが強くて。今はもう、生まれた瞬間から動画が身の周りにあることが当たり前の世の中で僕らは生きてるから。ノイズまみれとはいえ、めちゃくちゃなことって実はあまり起きないというか。相対的に、商業的な映画に比べたらA班はノイズまみれかもしれないけど、とはいってもここにこういうふうに置いたら、こう映るよねっていうのは何となく分かるよねっていう。だから、そういうところはありつつも面白かったね。あれは自分には撮れないなっていう。それこそフィクション・コースであれをやられたら、講師として「お前ら、何やってんだ」っていうふうに言うと思うけど(笑)。
竹内 ちょっとくらいは準備してこい!みたいな感じはありますよね(笑)
古澤 そういうことがつまんないなと思ったからアクターズ・コースを始めたんで。あ、もうあれでいいんだって見てて本当に楽しかったよ、なんか。うん。
B班/齋藤暉監督作品・スチール
——受講生時代よりは、映画っぽいみたいな映画撮ろうぜってなってたけど、ああなってしまったのは面白かったですね。真逆で。
古澤 でも、逆に質問なんだけど、演劇やるときは演劇っぽさみたいなことってみんなは目指すの?
——うーん。わりとそこから逸脱したいみたいな感情は私はありますけど。結局、「〇〇っぽいよね」みたいなくくりが生まれてきちゃうんで。そこからどう脱却するかみたいなところは考えているんじゃないかな‥‥。
古澤 不思議なのは、映画やるときはみんな、急に映画っぽさを目指そうとしちゃうんだよね。でもまあ、それは何だってあると思うんだよね。僕は演劇のことをあまり知らないんだけど、演劇の世界で「演劇っぽいのをやろう」っていう人もいるだろうし、小説とかもあるんだろうな、素人だけど小説ならイメージできるかな。例えば、19世紀的小説というか、ドストエフスキーとか、ああいうのだと、小説っぽいよねって感じがするけど、現代小説とかだと「えっ、小説ってこれでいいの?」って思ったりして。で、自分がもし書くとなったら、「あっ、こっちじゃなくて物語がしっかりした小説っぽいものを書こう」とか思うのかなー、とか思ったりするけど。
竹内 私は「演劇やってください」って言われたら、めちゃくちゃびびり倒しますね。喋って人の前で見せたらそれは演劇だよ、とか言ってもらえても「えーっ!?」みたいな。どうしよう、どうしようって。自分はちょっと怖くてできないって思いましたけど。そう思うと、皆が今回撮ってるっていうこと自体がすごいのかもしれない。
——確かに今話してて、思った以上に「映画っぽさ」に囚われていたんだなって思いましたね。なんだろう、参加した映画の現場とかでさくさくカットが決まっていって「あっ、これが映画というものなのか‥」と思ったりしてた影響もあるんだろうか。
古澤 映画のある種の人たちはさ、映画っていうのが歴史的に一度完成してしまって、その後ほとんど映画じゃなくなってるっていう感覚があるから、もはや失われてしまったけど、あのエデンの園を回復するためにやるんだっていう。そういう意味では映画っぽさっていうか、「映画」っていうのがきちんとあって、それを回復するんだって言うような意識がすごい強いんじゃないかなって思う。映画っぽさっていうと世代ごとにいろんなものがあると思うんだよね。多分そういう目でみると、現代の映画とか、テレビとか見てる人にとっては、初期のサイレント映画とかは映画っぽく逆に見えないかもしれないよね。映画っぽさっていう言葉はどこか同時代的な感性に支配されてるところはあるかなって思うから。そういう意味で言うと、映画っぽさを目指すんじゃなくて、もっと荒々しいところをやると、そうすると思いもかけず「あっそれは1930年代に起こったことで」って言われるかもしれないし、あるいはそれこそ、一番最先端の現代に届くことかもしれないし。なるべく映画っぽさっていうところからは離れた方がいいかなっていう気はするかな。
——映像と映画の違いも結局よく分からなくて。「撮ってるこれは映画たりえるのか?」って思ったりしていて。でも普段演劇っぽさとか全然考えてないはずなのに、映画っていうジャンルに入ってしまうと、視界が狭くなってしまうというか。それはさっき古澤さんがおっしゃっていたような荒々しさとはかけ離れちゃうかなーって思って。‥‥雑な感想ですね。
古澤 でもそういうふうに思えるってすごいなって。まさに僕らは、日々それと向き合いながら仕事してるんで。自分のやってることって本当に映画なのか?っていう。それはもう本当に答えがないから。演劇もそうだと思うんだけど。確信があってこうやれば映画になるっていうことは一回もないというか。やっぱり、何か掴んだなって思って次の作品にいった時には、同じことやっても映画にならないっていうのはすごい実感としてあるから。まさにそういう意識を持ったところから人って映画の人生を歩み始めちゃうんだよなーっていう(笑)。
——うん、これからもラフに撮りたいなーとは思います。もちろんフィクション・コースの方とも撮りたいけど、アクターズ・コース生との撮った感触は全然違って。あれはなんだったんだろうって思い続けてますけど。
竹内 でも、次撮る時に同じやり方でやろうとしたら、うまくいかないっていうこともありますよね。その時の関係性だったりだとか、映画に対する考え方とかがあってあれができてるから。どんどん荒々しさはなくなっていくかもしれないけど、新しい向き合い方が見つかったらすごい楽しみだなっていうふうには思います。え、あれってiPhoneで撮ってたんでしたっけ?
——あ、そうですね。全部iPhoneです。
竹内 でもiPhoneがあれば。
——いつでも撮れるから、本当ありがたいです。
竹内 いや、iPhoneすごいですよね。そうか、A班全部iPhoneだったのか。それ全然考えてなかった。普通にまったく、そんなこと思いもせず見てました。
——B班ってiPhoneじゃなかったんですか?
竹内 B班は全部一眼かな?iPhoneじゃないね。
古澤 B班は複数台使ってたよね。
竹内 そうですね、2台使って。でも、普通ちょっとカメラが重くなったら、置くじゃないですか。固定したりとか。もちろん固定してるんですけど、茶円(茜)さんとか芝居中に三脚動かしたりとかしてて。わっ、重くなっても、囚われなければこんな動かし方ができるんだーって。本番中に突然ズームしたりして、バードウォッチングみたいな感じで撮ってましたしね(笑)
——あのズームは最高に良かったですね。
竹内 どのシーンでもギュイーンってズームしてたから。
古澤 あのズームしてる茶円さんもすごいけど、それを編集で残した斎藤(暉)くんもすごいなーって思う。あれは元々ああいうことをやりつつ、いろんなテイクをそれぞれのカット用に撮っておこうっていう話だったらしいけど、でもその割には現場で毎回芝居が違うから繋がらないっていう。配慮があるんだかないんだか分からないなーって。
竹内 お芝居を撮るだけが撮影じゃないよなって改めて思いました。あの長いカットで、お芝居もすごい面白かったけど、やっぱりズームがあることでテンポ感というか、流れができて。B班は照明とかもこだわってて。本当に全然知識がない中で、どうやってあの部屋を朝にするかとか夜にするかとか考えたり、顔とかが暗いとちゃんと明るくしたりしていて。すごいなーって思いました。
古澤 それは誰がそういうのを引っ張っていったんだろう?那須さん?
竹内 那須ちゃんが結構やってましたね。でも途中からみんなそういうのを分かってきて、全員でやっていました。
古澤 すごいよね。自分学生の時そういう発想できなかったなーと。
竹内 しかも、当ててるーっていうわざとらしい感じじゃなくて、ふわっと明るくしたりとか上手にできてて。でもやっぱり時間がかかるって言ってた。せっかく芝居もできてるのに、もう!って言いながらやってて。わかるーって思いました。
古澤 現場の時間感覚も変わってくるからね。僕も大学生の時に初めて撮影現場を見学しに行った時に、こんなに時間かかるんだーって思ったけど今は全く感じないもんね。一昨日自主映画が1本クランクアップして。5日間撮影してたけど、関わった学生の子達はへとへとな感じだったけど、時間感覚がまだ一般人の時間感覚なんだよなーって。こっちはすごい楽だなって思って撮ってたけど。
竹内 でもさっきの話でもありましたけど、何回も撮り直しができるというか、ああ、今日日が暮れちゃったねってなったらまた集まって同じシーンをやったりも、自主映画だったりとか知ってる仲だったらできることだから。時間をかけなくなってくようにはなってほしくないというか。効率的なことよりも、納得いくまでやっていくようにはなってほしい。
古澤 そうそうそう。なんていうか、映画っぽさを目指すのもいいんだけど、そうすると現場で例えば茶円さんがああいうことをしようとしたら多分止める人が出てくる気がするんだよね(笑)。
竹内 あれ、私も悩みましたよ。茶円さんの後ろに立ってたんですけど、途中で三脚とか動かすからすごい絵が揺れてて、これ使えるのかなー?って。でもちょっと止めるのは違うなと思って見てたんですけど。でもすごい面白かったのは、それを那須ちゃんがチェックするじゃないですか。で、那須ちゃんが「これ動かさないでくだい」とか言うかなと思ったんですよ。でも言わないんですよ。
古澤 おおお。
竹内 ええっ!?みたいな。見た時になんかあるんじゃない?って思ったけど、いいんだ‥‥って思って。あの凧揚げのシーンとかも、整理して撮っちゃうとすごくつまらないようなことになると思うんですよ。台詞を録るのを後回しにしたっていうこともあったと思うんですけど、すごく躍動感のある凧揚げのシーンになってて。あーすごい面白いなって思いました。あれって凧と芝居場とで高低差もあるし、そもそもちゃんと凧が上がるかどうか不安で、色々カット割とか考えて現場にいかなきゃ!って思うシーンだと思うんですけど。とりあえず行ってその場の勢いで撮るってすごくいいなって思いました。反対に斎藤くんとかは、脚本書きながらロケハンに行ったりしていて、撮りたいアングルのイメージがちゃんと自分の中にあって、現場ではそれが一体どこかってところでカメラの位置を調整するっていうのを繰り返してて。正対したかったりとか、あとはシンメトリーにしたい欲求とかあって。そういう欲求も皆の中で撮り始めたらどんどん出てくるから。自分が何やりたいんだろう?って考えこむよりも、まずは動いてみるっていうのが大事なんだなと思いました
古澤 もちろんゼミを始める前に、今回ゼミでこれがしたいなーっていう思いはあったけれど。やってみたら、いい意味で思ってもない結果が出て、あっ良かったなっていうか。思った以上にアクターズ生が撮る映画って面白いな、っていう。いわゆる映画っぽい映画って、見てもドキドキしないっていうか。安心して見て「ああ、確かに映画っぽいなー」以上の感想が特に沸かないというか。作る方は映画っぽさを求めちゃうんだけど、見てるお客さんって別に映画っぽさを求めてるわけじゃなくて、びっくりしたいっていうか。見たことないものを見てみたいっていう思いがあると思うんで。そういう意味でやっぱりアクターズの今回の4本は映画見たなっていう感じがすごいしたかな。
——ぼちぼちいい時間になってきましたが。「せいかつ発表会」で何かあります‥‥?自分の作ったものがスクリーンで流れるっていうことがめちゃくちゃ緊張してあまり記憶がないんですけど。
古澤 地下スタジオでのちっちゃいスクリーンと、試写室の大きいスクリーンだとやっぱり違いました?
——全然違いましたね。辛かった‥‥。初舞台の時を思い出しました。感想聞きたいけど聞きに行けなくて怖がってもじもじしてる感じ。
竹内 でも3プログラム、それぞれ40分をお客さんが飽きずに見ていて、本当にすごいことだと思いました。飽きてきたりすると、客席の雰囲気が変わってくるんですけど。あの3プログラム全部、みんなすごい集中して見てて。
——最後の小林さんの作品とかも全然みんな集中して見てくれてて。うちらの作品って結局素材一緒だし、私と小林さんのって最初の7分くらいまで編集同じなんですよ。怒られないかな?とか小林さんと喋ってたんですけど、飽きずに見てくれてる‥‥ありがとうございます‥って思いました。
竹内 私も、自分の断片ゼミで作った作品をちょっと流すのでさえ緊張したから、あーみんなもすごい緊張してるだろうなーと思いました。上映後も感想聞きたいけど、怖い怖い怖い!みたいになってましたね(笑)
——昔、フィクション・コースの同期の講評にたまにお邪魔してたけど、作品それぞれを講師陣がボコボコに講評してて。あれ今更ながらに鋼メンタル必要だよな‥って今回思いました。
竹内 でも、講評の方がボコボコにされるけど、意見聞けるじゃないですか。あっこういうふうに思ってたんだ、みたいな。でも上映会って自分から聞かないといけないから。言ってくれる人もたまにいるけど、ふわーって解散するときとかあるじゃないですか。あれ怖くないですか?私、あれはあれで結構怖いなと。
古澤 でもダメ出しって、演出家もそうだし、講師もそうなんだけど一番楽なんだよね。一番仕事してるふりができるというか。仕事してる感すごいあるじゃん。ダメ出しって。なんかやっぱりこう、受講生もそうなんだけど、ダメ出しされて「あー、ダメか、頑張ろう」ってまで含めて講義受けてる感があるけど、「よかったよ」「うん、よかった」ってなると「えっ、もっと何か言ってくれねえかな!?」って。
竹内 確かにフィクション・コースの子も、講師に「うん、いいんじゃない?」って言われて「えっ‥‥もっと言ってよ」って思いました、って言ってました。それは本当に良かったんじゃない?って言いましたけど(笑)。
古澤 難しい、だからそのへんは。けなされたら傷つくし、褒められたら逆に不安になるし。どこまで我儘なんだろうって(笑)。
全員 (笑)。
竹内 でも上映するまでの体験ができてよかったなって思いました。撮って終わり、じゃなくてちゃんと見てもらうみたいなところ、しかもちゃんとスクリーンに映すところまでできて。自分たちの作っているものが映画だっていうことを、自分たちではあまり認められないところがあるじゃないですか。「こんなの映画かな?」みたいな。でも流してみんなで見て、反応ももらって、前向きな気持ちになれたんじゃないかな?って。堂々と作品だって言える一本になれたんじゃないかなって。
古澤 でも考えてみたらアクターズ・コース10年やってきて、初めてちゃんと人前に見せるものを作ったっていうか。体制がどうだったかっていうのは置いといて、うん。もっとやってきてもよかったかなっていう気はしたかな。講義の中で完結してたけど、見せるところまでやって映画だなっていう気はしましたね。
——そうですね。なんだかんだ受講生時代は、ミニコラボも撮りましたけど言ってフィクション・コースだけでしか共有できなかったから。ちゃんと外部に開いてっていう機会がなかったから、そういう意味でもすごい有意義な時間をいただけた気がします。
古澤健(Furusawa Takeshi)
高校生の頃より8ミリ映画を撮り始める。『home sweet movie』が97年度PFFにて入選(脚本賞)。98年『怯える』がクレルモンフェラン短編映画祭に招待される。『 超極道』(01/瀬々敬久)で脚本家としてプロデビュー。 脚本作品として『ドッペルゲンガー』(02/黒沢清)『こっくり さん 日本版』(05/坂本一雪)など。監督作品としては『ロスト☆ マイウェイ』(04)『making of LOVE』(10)『アナザー Another』(11)『今日、恋をはじめます』(12)『R eLIFE リライフ』(17)『一礼して、キス』(14)『青夏 Ao-Natsu』(18)『たわわな気持ち』(19)『 キラー・テナント』(20)など。プロデュース作品としてアクタ ーズ・コース第2期高等科生とともに製作した『ゾンからのメッセ ージ』(18/鈴木卓爾監督)がある。
竹内里紗(Takeuchi Risa)
1991年生まれ。神奈川県出身。立教大学・映画美学校にて万田邦敏監督に師事し、東京藝術大学大学院映像研究科を卒業。主な監督作に、『みちていく』(14)『みつこと宇宙こぶ』(18)『21世紀の女の子/Mirror』(19)ANA オリジナルショートムービー 『再見』(20)などがある。
2021/3/18 インタビュー・構成/浅田麻衣