【スペシャル対談!】「映画 × 演劇」(佐々木透 × 深田晃司)【前編】
こんにちは!ムビシク応援隊のSです!
やって来ました、特別企画!
今回の修了公演を担当する佐々木透さんと、映画監督・深田晃司さんのスペシャル対談の前編をお送りします!
「映画」、「演劇」、それは何なのか、そしてその両立は可能なのか…
Sのイントロ文章なんか要りません!脳汁全開!完全に必読!
それではどうぞ!
「映画 × 演劇」 佐々木透 × 深田晃司
【プロフィール】
佐々木透
リクウズルーム代表。ク・ナウカシアターカンパニーで演出家・宮城聰のもと俳優として活動。退団後、執筆活動に取り組む。「日本の劇」戯曲賞2013最優秀賞受賞、第5回泉鏡花記念金沢戯曲大賞受賞。 文学への深い知識、鋭い感性と美意識を持ち、”戯曲構造”と”物語の可能性”を探る事をテーマに創作活動を行う。
深田晃司
2002年より長短編3本の自主映画制作後、06年、『ざくろ屋敷』を発表、パリKINOTAYO映画祭にて新人賞受賞。09年、長編『東京人間喜劇』を発表。同作はローマ国際映画祭、パリシネマ国際映画祭に選出、シネドライヴ2010大賞受賞。10年、『歓待』 で東京国際映画祭「ある視点」部門作品賞、プチョン国際映画祭最優秀アジア映画賞、TAMA映画祭最優秀新人監督賞を受賞。
05年より劇団青年団演出部に所属しながら、映画制作を継続。11年にこまばアゴラ劇場で初の映画祭を青年団俳優とともに企画開催した。16年、『淵に立つ』で第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞した。
:::::以下対談本文(前編):::::
―今回の修了公演では「演劇を映像化したことはあるけれど、演劇の中に「映画」を取り込めていないのではないか」ということがモチーフになっています。映画を使って何かをするということではなく、演劇の中に「映画」を両立させるにはどうしたらいいか、せっかくの映画美学校修了公演なのでそういうことは出来ないか、と現在も模索しながら稽古中です。
深田晃司(以下 深) なるほどね。今までは「数式」とか「会計」を発想の元ネタにしていましたが、それが「映画」になったということですね。
佐々木透(以下 佐) そうです。先日脚本コースの講義の中でも高橋洋先生とお話しさせて頂いたのですが、映画美学校の修了制作で演劇をやるということがあまり腑に落ちていないんです(笑)。「なんで「映画」という名前を学校名に付けているのに最後は演劇なの?」と(笑)。もちろん色々な事情や狙いがあってそうしているのは分かっているのですけど、どうせだったらそこに「なんでやねん」って言ってみないと面白くないな、と僕は思ってしまったので。
深 もしかしたら受講生の中でも内心そう思っている子は多いかも(笑)。
佐 「俺、映画やりたいのに、舞台って聞いてねえよ」って(笑)。実際に舞台に立ったことがない人も今期の受講生にいますし。僕は別に映画も演劇も、どちらもやることとしては最終的には同じだと思ってはいますけれども、ただ、表出のされ方が全く違うものなので、そうやって問いを突き詰めていけたら…
この間も高橋先生から「演劇の想像力を映画に落とし込むことはあっても、その逆ってないですよね」という話をされて「ああ面白いなぁ」と。一応深田さんは青年団の演出部にもいらっしゃるから、割とその辺のことって結構お考えだったと思うんですけど、どんな感じですか?
深 考えてみると…あまり考えていないのですけど(笑)。
佐 (笑)。
深 「演劇の想像力」と「映画の想像力」、そこがまずどう違うのかなというのはあるんですけど、僕の中では演劇の方が、こと「想像力」というその一点に関してはやっぱりなかなか敵わないなというところがあるわけですよね。
例えば『スターウォーズ』の宇宙と、五反田団の前田司郎さんがアトリエヘリコプターを宇宙空間にしてしまうこと、その2つの宇宙を比べてみても前田さんの作り出す宇宙の方がもの凄い広がりがあるような、永遠に広がっていくような印象があるんですよね。だからそういった意味で「想像力」というものに関して映画は演劇に負けちゃっているんじゃないかなという印象はあって。じゃあ「映画的想像力」というものがあるとすれば、それって何なんだろうなと。
佐 高橋さんと「戯曲と映画脚本の違いは何だ」ということも話したんです。「映画脚本はマニアとかに向けてシナリオとして売ることはあっても、手にする人がほとんどいない。戯曲もそうなのかもしれませんが、戯曲と映画脚本で考えたら、商業的な流通量で言えばその差は歴然としている。それについてどう思いますか?」と聞かれたんです。
「戯曲と台本の違い、あるいは脚本の違いは何ですか?」と問われた時のよくある答えの1つに「戯曲は文学だ」みたいなことが言われる。もちろんそういう側面はあるのですけど、それって「文学」という、割と抽象的な概念で具体性がないなと思って、あんまり演劇をやっている身としては言いたくないなぁと。で、その時に反射的に答えたのが「映画は残る」と。作品として残るけれども、演劇は作品として残らないから戯曲が強度を持つんじゃないか、と。
深 だから戯曲が優位性を持つと。
佐 そういう話をさせてもらったら高橋先生が「なるほど」と仰ってましたね。
深 映画の台本・脚本と演劇の台本・戯曲の違いに関して、「戯曲は文学だ」という前提になっているという点で言うと、確かにイプセンの『人形の家』という作品が僕は大好きで、自分が色々な作品を語る中で参考にしたり引用したりするのですが、実は舞台自体は観たことがないんですね(笑)。岩波文庫版で読んで面白いと思ったんですけど、考えたら映画の台本が岩波文庫になっているなんて聞いたことがない。
佐 そうですよね。
深 そこは確かに今仰った通り「映画は残る」ので、どうしても作品そのものの優位性みたいなものが文字よりも強くなってしまうというのはあるかもしれないんだけれど、あとは「セリフの強度」というのもあるのかなと思っていて。映画の場合、特に日本の映画の場合だと、海外の台本と比べてト書きを書き込まない傾向が強くて。そうなってくると、言葉というところが、これも現代演劇になるにつれて色々と状況は変わって来つつあるのですけど、でもやはり本来的に演劇は言葉の強度というのが凄く強い。
俳優が喋らなければ舞台がなかなか進んでいかない、みたいなところもある中で、そのセリフを読むだけでもある種の文学的作品としても楽しめる。だけど映画における言葉というのは、映画における言葉自体が作品を占めるウエイトとしてはやっぱり演劇と比べると小さいので。文字で書かれた台本だけだと、作品としての完結度が弱いのかなというところで差が出るのかなと。
佐 その問題が起こる大元は「再演」という考え方が映画にはない、というところからその話が始まったんですよ。例えば昔の映画を、本当に珍しいケースでその当時作られた映画脚本を使うこともないとは言えないけれど、やっぱり今やるのだったら今の言葉に変えないと、とか、どうしても無理が起こると仰っていたので。
深 そうですね。ガス・ヴァン・サントが『サイコ』をリメイクした時に、カット割もオリジナルのヒッチコック版を再現して台本もほぼ同じだったようですけど、それも特殊ケースだし。
でも「映画的想像力」と「演劇的想像力」というところで、じゃあその「映画的想像力」って何なんだろうというところはまだ掴み切れないところがあるのですが、僕は演劇にはなくて映画にはあるものでキーになるのは「モンタージュ」「編集」ではないかなと思っていて。これはゴダールか誰かが言っていたと思うんですけど「編集とは二つの異物の衝突である」というような言い方をしていて。
凄く原初的なモンタージュの定義の以前によくあるのは、例えば紳士の顔が映っていて、その間にリンゴの映像が1つインサートされると、そこで紳士がリンゴを見てお腹を減らしている・食べたいと思っているという「紳士の欲望」がそこで捏造され「想像」されていく。一方で、インサートされるのがリンゴではなく女性の裸になれば、もしかして紳士は欲情しているのではないか、と。そこで紳士の表情が全く変わらなくてもそこで生み出されていく「想像力」というのは変わってくる、と。
だからやっぱりモンタージュによって映画の様々なモチーフをスクリーンに並べていくわけで、その並べ方1つによって観ている人の想像力、想像の仕方が全てドンドンとコントロールされて移り変わっていく。
映画はカメラと被写体の関係で、演劇はお客さんと役者・舞台の関係、というように「視点の基点」みたいなものが映画と演劇では違うんですけど、やっぱりカメラの場合はどうしても「被写体」「モチーフ」になるんですよね。映画は如何にスクリーンにモチーフを並べていくかという作業になるので、そこでもしかしたら演劇とは違ってくるのかなと。
佐 高橋先生がやっぱり同じように「演劇になくて映画にあるものというのは「編集」ということなんじゃないか」と挙げられていたんですけど。
深 あぁ、やっぱり。
佐 ただ、実際に演劇で「編集」が行われてないかというと、高橋先生も舞台を数々ご覧になって抱いた印象として、登場人物の出ハケとか色々な演出効果を使う時に「これは「編集」だ」と思ったそうなんですよ。
深 それは分かります。広義の意味で編集的な演出がなされていたりする、と。僕は出ハケに関しては、本質的に舞台の出ハケと映画の出ハケはそんなに変わらないんじゃないかと思っているところがある。青年団の制作で映画の評論等もやっている野村政之と前に話した時に、彼が「演劇の場合は俳優の肉体を使って「編集」を行っている」と言っていた。縮めたり早めたり省略してしまったりとか、そういった「編集」を行っているという言い方をしていて「なるほどなぁ」と思ったんですけど。
ただ、多分映画の編集の方がもっとスピードが遅い・早いとかではなく、ただ「並べていく」っていう作業、しかもそれがぶつ切りに並べられていくという作業であると。演劇でぶつ切りに並べていくということが不可能かどうかは分からないのですけれど、恐らく難しいし、これまで「映画的想像力」みたいなものが演劇の舞台に持ち込まれることが少なかったとすると、広義の意味で「モンタージュ的効果」というのがあったとしても、やっぱり「モンタージュ」というものを演劇に持ち込むというのが本質的に難しいからではないかと。
映画の技術的なご先祖様は「写真」だから、映画の中では写真作品が並んでいて、そこに「モンタージュ」を行う中で効果が生まれていくものであると。あるいは写真の、平面芸術の元祖は「絵画」になってくるので「絵画」でもいいのかもしれない。絵画も画家が花瓶をモチーフにするか花をモチーフにするか、それで色々と変わってきて、それが一連の展示において乱暴に並べられていく。演劇はどうしても持続して、シームレスに継続していく舞台なので、暗転とかをドンドンと用いていくという方法論もあると思うんですけど、実際そういうものは観たことがないなと。
佐 最近の傾向として演劇でも映像をちょこちょこ使っていると思うのですが、それが「映画」かというと「映画」ではない。その辺の差というのは何なんだろうなというところを深田さんに聞いてみたいなと思うんですけどね(笑)。
深 それは難しいですね。確かに演劇を観ていて映像が使われて面白いなと思うものは色々ありました。『アマルガム手帖+』(2016年1月こまばアゴラ劇場にて上演されたリクウズルームの作品)では使っていないですよね?
佐 プロジェクターで字幕を出したりはしましたが、あれも映像といえば映像ですね。ただ、あれが今お話しになった「モンタージュ」かというと、そういうのでもないしなぁみたいな(笑)。関係性としては「補完」に近いようなものなので。
深 確かにそれはありますね。今の「補完」というのはもしかしたらいいキーワードかなと思うんですけど。やっぱり映画の場合って、映像しか存在しない。もちろんかつてはサイレント時代に活動弁士とか伴奏音楽とかが入ったとしても、それは映像を補完するものとしてあったわけで、あくまでも映像が「主」。演劇などのライブパフォーマンスに映像が入る場合はどうしてもそのライブパフォーマンスが「主」になって、映像が「従」になっていく、ライブパフォーマンスを補完していくものになってくるので、中々そこが均等にぶつかり合うというところまで行っていないですよね。
佐 活動弁士は圧倒的に目立ちますよね。
深 それでも映画の場合は弁士がいてもスクリーンに映る映画が「主」だと感じますね。ただ、例えばハイバイなんかは映像を面白く効果的に使っていますけど、あれを観ても「映画」を観ているのではなくて映像もひっくるめて「演劇」を観ているんだという演劇体験としての方が強いですよね。
佐 ただ、それだけを聞くと、じゃあ演劇が上位なのかという話に聞こえなくもなくなりますよね。だって、映画は演劇から影響を受けるけど、演劇は映画からの影響が、結局は演劇の作品として表出されるということになるので…
これも高橋先生との話の中で出て来たのですが、舞台があって、本番をその舞台でセットを組んで「舞台の作品」としてやるんだけど、そこに全部カメラをセットする。そして、カメラが入った途端に舞台の演劇作品のはずなのに、それは「映画」になっている、そういう作品があるというのが大変興味深くて。
深 え、舞台記録のカメラということではなくて?
佐 記録のカメラということではなくて、カット割も全部決めた「映画」の作品になると。不思議なのは、俳優の意識もカメラが入るとカメラに向かうということです。舞台の本番をやっている時は観客の視線に対して向けるものが、複数のカメラの視点へ向かって演技を始めるから、舞台の作品を全く同じようにやっているようでも、カメラが入ると何故か「映画」になると。そういった感覚的なお話をされていて。
深 ああ、なるほどね。最近だとね、山内ケンジさんの『At the terrace テラスにて』も『トロワグロ』(第59回岸田國士戯曲賞受賞作)をシンプルにそのままに映画化するとかやっていましたけど。
佐 高橋先生が紹介してくれたその作品は「映画化」ともちょっと違うみたいでしたけどね。
高橋先生との講義では中原俊さんの『12人の優しい日本人』を最初にちょっと観て、いわゆる長回しというところから「ここが演劇っぽい」、映画と演劇の「間の子」だ、みたいなところから話を始めたのですが、「映画では今、実は長回しに可能性を見ている流れがあるんだよ」みたいなことを仰ってましたけど。
深 演劇を如何に撮るかという話になってくるとそこはまた非常に難しいのですが…
僕は、映画と演劇の関係だと、非常に複雑な捻くれた関係になっているなと思うんです。まず自分は元々映画がもの凄く好きで、いわゆる映画至上主義者だったんですよ。まぁシネフィルっていうやつなのですけど。
佐 いいですね(笑)。
深 そういう頑迷な人間にありがちなのは、やっぱり演劇をね、バカにしがちなんですよ。はっきり言って(笑)。
佐 (笑)。どうバカにしているんですか?
深 単純に、演劇に色目を使った映画は面白くないという印象が強いんですね。例えば、ローレンス・オリヴィエはシェイクスピアの作品を何本か映画化しているのですが「なんか弾けないよね」と。でも一方で、オーソン・ウェルズみたいな人がシェイクスピアをやると、何かもの凄く映画として立ち上がるという印象があって、その差はなんなんだろうと。
あるいは舞台の映画化では、例えば三谷幸喜さんの『ラヂオの時間』は演劇版と映画版で双方とも評価されてスマッシュヒットを飛ばしている。三谷幸喜さんがもの凄い映画ファン・オタクで、映画版には非常に映画的な技法というものがふんだんに盛り込まれているんですよね。
例えばカメラをトラックバックしながらズームアップすると人物が浮き上がるんだけど背景が遠退いて見えるという、そういったカメラ的な技法を駆使して映画化しているんだけど、それが中々「映画」として立ち上がっていないんじゃないかという側面もあったりして。でも長回しで演劇の視点に近くして撮ると「映画」になるのか、というのも中々難しいところだなぁと思っていて。
佐 考えても結論なんか出ないのですけど、普段「こういうもんだろ」と考えていることからはちょっと解き放たれて、ああでもないこうでもないとなって七転八倒するので、僕は考えること自体が面白いなと思うんですけどね。
深 映画と演劇ということに関して僕の個人的なこれまでの体験からすると、一番自分の中でしっくり近付いた瞬間というのは、やっぱり青年団の舞台を初めて観た時なんですね。とにかく面白くて。それまで映画至上主義者だったので演劇を低く見ていて、しかも学生演劇みたいなのに誘われて観に行くと、ことごとく「あちゃー」みたいな内容ばかりだった。「このタイミングで松任谷由実を流すか」みたいな。とにかく舞台で俳優が熱演すれば熱演するほど気持ちが冷めていく状況がある中で、青年団の舞台を観て非常に面白かった。
佐 (笑)。何をご覧になったんですか?
深 初めて見たのは『忠臣蔵・OL編』という作品なんですけど、まずそれがめちゃくちゃ面白くて「なんだこの舞台は」と。それで気になって何本か観るようになって、初めて本当に凄いと思ったのは『海よりも長い夜』という駒場東大寮の解体問題を扱った、平田オリザさんの中でも「組織と個人の相剋」みたいなものを題材にした作品なんですけど、そこで描かれる戯曲の言葉と構成が凄く面白くて。「映画的想像力」「演劇的想像力」というカッコ付きのジャンル付けとは関係のない、単純に観客・観る者の「想像力」を圧倒的に引き出してゆく方法論がそこにあるなと思った。
つまりオリザさんの傾向としては、舞台上の役者は誰も本音らしきものを語らないんですよ。不用意に感情をさらけ出さないし本音を漏らさないし、さらけ出していたとしてもそのさらけ出している感情は本当にその人の本音かどうかなんて分からないよね、という人間観で描かれていて、これは凄く現代的な人間観だなと思う。で、それをさらけ出さないんだけど、それを観る人はその本音らしきものが想像出来るようには出来ていて、やっぱりそれは戯曲の構成が上手いからなのですよね。
例えば人物の出ハケであったり、どこで誰と誰が話して誰が一人ぼっちになるであったり、そういう物語の構成が圧倒的に上手いから、みんな本音らしきものを話さなくても本音を想像出来るように出来ている。その出ハケの上手さというのが、自分の敬愛するエリック・ロメール監督とか、あるいは成瀬巳喜男監督作品における脚本の構成とか、そういったものと通じると20代の時に感じちゃったんですよね。だから青年団に入ってそれを勉強したいと。僕の中ではその当時、現代の日本語で一番洗練された形でそれを実践していたのが青年団だった。その時に自分の中では、映画と演劇はかなりリンクしたところがあって。
佐 青年団の話になったので青年団の話をすると、僕は演劇の人間として青年団を観てやっぱり同じように感銘を受けた。もう本当に当時、もの凄い衝撃だったんですよ。僕が10代の頃に一番最初に観たのが『ソウル市民』でしたけど、もう本当に今までのいわゆるステレオタイプな、深田さんもおイヤな感じの…(笑)。
深 辟易していたあの感じですね(笑)。
佐 辟易する類のものが一応常識として身体の中にすっぽりと収まっていた時期に、それとは全部真反対のことをやっていた。もちろん表現方法もそうなのですが、これを例えば「編集」「モンタージュ」というところにお話を持ち込んでみると、僕が一番衝撃だったのは「舞台上から誰もいなくなる」ことで。
深 いなくなりますねぇ。あの瞬間がゾクッとする。
佐 僕もやっぱり同じようにあの瞬間がゾクッとした。劇場に来て、やっぱり人間を観に来ているとどこかで思っていたんですけど、あの瞬間に「人間を観ているんじゃなかったんだ…」というふうに、あそこで自分の中の理解の何かがひっくり返ったんですよ。その時に「あ、これ、凄いな」と思っちゃって。
さきほど映画美学校で講師をされている井川耕一郎さんと少し話をしていたのですが、井川さんは最近スピルバーグの初期の映画を観ていたらしいんですよね。そうしていたら「スピルバーグっていう人は、本当はあまり人を撮りたくなかったんじゃないか」ということに気が付いたみたいな話をされていて(笑)。
深 特に初期はね(笑)。鮫撮ったり車撮ったり、そんなのばかりですからね。
佐 もちろん笑い話として「本当にこの人、人を撮りたくなかったんだろうな」と仰っていたのですが。その時に僕が「演劇で人がいない作品は成立するのだろうか」ということを笑い話としてしたんです(笑)。劇場に来て、人が美術としているとかでもなく、単に舞台で物だけがある、それって演劇として成立するのかなって(笑)。まぁオリザさんはロボットとかとも演劇をやっていますし(『さようなら』))、深田さんも『さようなら』を映画化していますが、あの作品に出て来るロボットも、役割としては結局「人間」じゃないですか。
深 まぁそうですね。
佐 僕も大好きなんですけど、宮沢賢治の『シグナルとシグナレス』みたいな、いわゆる擬人化ということでもなく、ただ舞台で人がいなくて物を観るという演劇が成立するのだろうかと話していたのですが、今深田さんとお話ししていて僕が唯一その瞬間を観ているなとフッと思い出したのが、やっぱり青年団の「舞台上から誰もいなくなる」瞬間がその感覚に近いなと思った。あれってよくよく考えたら、やっぱり演劇を下に見ていた人の価値観がひっくり返るほどのものですから。
深 (笑)。
佐 やっぱり「映画的」でもあるんだろうなと。
深 そうですね。この宝を自分の映画表現に持ち帰って来ようと海賊のような気分で青年団に入っていった感じなので(笑)。やっぱりそれは、映画とか演劇とかの表現の垣根を越えて圧倒的だった。映画も演劇もカメラの視点とか観客の視点とか色々言うけれど、でも結局は作品と鑑賞者の「想像力の交換」であるというところで言ったら、やっぱりそれは演劇も映画も音楽も絵画も全て一致するわけで。
多分その凄く本質的なところで優れたことをやれば、全部ドンドン重なって来るということだと思うんですね。逆に「表層の部分」というのは全部分かれてくるんです。もしかしたら今僕たちが囚われてしまう「映画的想像力」「演劇的想像力」と書く時の「〜的」って部分は、実は凄く表層のもので分かりやすいところ。
佐 そうですね。
深 映画と演劇のコラボレーションをやろうとすると、どうしても表層の部分を重ね合わせていじくって交わっているような気持ちになってしまうから、作品としては中途半端なものになりがちで。大抵スクリーンに映画でも流しながらライブパフォーマンスをするとかダンスしたりするとか(笑)、やっぱり表現としては非常に未完成なものになってしまう。やっぱり表層的な分かりやすい「映画的」「演劇的」っていうところに囚われてしまうと、多分中々難しいんだろうなと。
佐 釘差しますねぇ〜これから修了公演をやろうとする人間に(笑)。
深 そうですね(笑)。ここに来るまで全然考えてなかったけど話しているそうかもなっていうのが出て来てね(笑)。
佐 表層的になりそうな感じもしなくもないですけど(笑)。
——後編に続く(構成:スズキシンスケ)
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2017年3月2日[木] - 3月5日[日]
アクターズ・コース2016年度公演
『Movie Sick ムービーシック』
作・演出:佐々木透(リクウズルーム)
リクウズルーム代表。ク・ナウカシアターカンパニーで演出家・宮城聰のもと俳優として活動。退団後、執筆活動に取り組む。「日本の劇」戯曲賞2013最優秀賞受賞、第5回泉鏡花記念金沢戯曲大賞受賞。 文学への深い知識、鋭い感性と美意識を持ち、”戯曲構造”と”物語の可能性”を探る事をテーマに創作活動を行う。
出演:浅田麻衣、太田英介、大西美香、金岡秀樹、
鈴木睦海、鈴木幸重、外崎桃子、仁田直人、
塗塀一海、四柳智惟、米川幸リオン
〔アクターズ・コース映画・演劇を横断し活躍する俳優養成講座〕
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公演日程
2017年3月
2日(木)19:30〜★
3日(金)19:30〜★
4日(土)14:00〜/19:00〜
5日(日)14:00〜/18:00〜
★=終演後アフタートーク開催〔30分程度を予定〕
※未就学児童の入場はご遠慮ください。
※受付開始・当日券販売は開演の40分前、開場は開演の20分前
※演出の都合上、開演後はご入場をお待ちいただく場合がございます。
会場:アトリエ春風舎
〒173−0036 東京都板橋区向原2−22−17 すぺいすしょう向原B1
チケット料金(日時指定・全席自由、予約・当日とも)
一般:2,300円
学生:1,800円※公演当日、受付にて要学生証提示
予約受付はこちらから!
→ 映画美学校アクターズ・コース2016年度公演『Movie Sick』 予約フォーム