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レポート-3『コトバ・プレイ 1~批評と演劇の関係は何を生み出すか?』

引き続き「コトバ・プレイ」のレポート-3、完結編です。3回にわけての全文掲載となります。

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松井:ちょっと話変わりますが、構造というか、例えば行われてること、見えてることで良いと思うんですけど、俳優がやってる作業についてどう思ってるか、っていうのはちょっと聞いてみたいですね。役を背負ってる役者なんだけど、役柄っていうものと、その人個人そのものの生々しさみたいなものと、演出上それが役柄ですよ、っていうような説明的な画である場合もあるし、あるいはもしかしたら役柄からずれてるかも知れない、あるいは役柄を超えちゃってるかもしれない。さっきも言ったけど、俳優に対する言葉っていうのは、やっぱりもうちょっと進化しても良いんじゃないかなと思ってて。好きだった、良かった、すごかった、っていうことではない、俳優がやってる作業。でもその作業については仮説でしか立てられない、わからない部分あると思うんですけど。その辺どうですか。

山内:これ、たぶんつながると思うんですけど、例えばこの『革命日記』で、日本の学生運動であるとか革命であるとかということ、この劇のコンテクストが届く海外って無いよね。韓国とか若干あるかも知れないけども。まあアジアだったらなんとなく近しく感じるかも知れない。西洋文明だとほぼこのことの意味を伝えるのは難しいよね。演劇っておよそすごくドメスティックというか。唐鎌くん(田中の義理の弟役)が役柄上纏っている過去の記憶、その空気っていうのは、感覚的にとてもドメスティックで、射程範囲もとても狭いものだよね。それを海外に持っていって面白がってもらうっていうのは、そのままではかなり難しい。

ここから二つ言いたいことがあって、もしもフランスでやるとして、フランスのコンテクストを熟知して、日本のコンテクストを熟知して、それをすり合わせて何か価値を作ってくれるって人がいれば、これは嬉しい、例えばね。両方とも熟知して間をつないでくれるっていうのはとても嬉しい。もう一つ言うならば、このコンテクストわかんなくても、俳優ならわかることってあるんだよね、おそらく。演技やってる人なら。西洋の俳優の作業と、日本の俳優の作業っていうのは、ほんとのとこはわかんないにしても、かなり語ることはあると思う。言葉とかコンテクストわかんなくても。そこは逆に俳優同士で言葉は出せるんだよね。そういう二つのことがあるんですけど。

山﨑:その言葉をそのまま使えるかどうかは別として、俳優同士で通じる言葉を批評家が聞くことで獲得できる言葉もあるんじゃないかなっていうのが、僕がアクターズ・コースに関わるときに思ってることなんですけども。あとは海外のものをやったりとか、海外に持ってくときに、コンテクストを、日本のものを海外に持って行ったり、海外のものを日本に持ち込んだりするときにも、批評がセットで入ってくることで面白がれる可能性っていうのはまだ残されてると。

山内:それが無いと僕は無理だと思う。違う文脈のものが触れ合う可能性っていうのは、難しいよ。

綾門:コンテクストを準備する批評という面で言うと、ちょっと演劇の話から逸れるんですけど、新潮社の「新潮クレスト・ブックス」っていう海外小説のシリーズがあるんですけど、あれ必ず本の表紙に海外の編集者であったり、批評家であったり、新聞記事であったり、その国の批評があって、裏を見ると、日本の作家の作品を読んだ上での批評と、翻訳者の批評が載ってて、そういう一連がパッケージングされてる。戦略としてすごく優れていると思っていて、だからこそあのシリーズを追ってる読者っていうのが一定数いる。それを開拓することに成功してるんですね。

似たようなことを日本の劇団のツアーが海外であったときに、できると一番良いなって思ったんです。もちろんジャンルが違うと難しいんですけど、あれがあるのと無いのとでだいぶ違うなと思って。俺いきなりアフリカの小説読んだときにわけがわからなかったんですよ。それはまず国名を知らなくて、「そんな国がアフリカにあるんだ」ぐらいで読むとやっぱり全然わかんないわけですね。想像力の限界。「今使ってるその道具何だ?」みたいな。たぶん向こうでも同じこと考えてて、例えば「マームとジプシー」がチリでツアーやったときに、果たして向こうの人はどれだけわかったんだろうって。そういうパッケージングが、扇田さん的にツアーに同行する批評、っていうだけではなく、広げて行けたら良いとは思いますね。

山﨑:いまかなり批評に偏った話をしてるんですけど、一方でその演劇を巡る言葉っていうのは批評だけじゃなくて、例えば港さんはスタート地点としては主観からスタートすると。山内さんはフランスでは観客との関係が日本と違う、みたいな話も打ち合わせやツイッターで書かれたりしていて、例えばそれはお喋り、作品について批評になってなくても語る文化っていうのがある、ってことですよね。日本でもなくはないと思うんですけども。批評はもちろん必要だと僕は思ってるんですけど、一方で演劇はその場で無くなっちゃうわけですから、感想を語り合う場っていうのも、他のものよりもむしろ無きゃいけないんじゃないかな、ということも思ってるんです。

山内:お話したのは、フランスでフランス語7割日本語3割くらいのお芝居をしてるときに、客席と向き合ってるときの感じがなんか違うな、って経験があったんですよ。で何が違うんだろうってことを考え続けてたら、向こうに在住長い友達が、「日本の人は芸術を上に見上げて『鑑賞』する、フランスの人たちはこれをネタに自分は何を喋ろうか、ってことばっか考えてる」ってこと言ってて、ああそうだよねと思って。10対0じゃなくて、これも割合だと思うんですけども、それはそうかも知れないなと。「モノ言う観客席」というのは若干あるなと。だからアフタートークなんかすごく顕著ですよね。アフタートークのとき、日本だとこうやって横同士で話したりしてトークショーみたいにしますけども、フランスのときのアフタートークって完全に舞台の前っ面にこうやって座って、質問ある人、って質問してもらって、そして答えるときにもその人にしか答えない。そういう形式でどんどん対話をする。でもそこに平田オリザがいたりすると、質問受けたら返すときには全体に向かってレクチャーしたりするんですけど。(笑)とても啓蒙的かもしれないけども、これはやりとりのコンテクストが全然違うなあと思います。でも一方で、じゃあそうやって客席できちんと質問できる、何か言えることが偉いのか、とかそういうルサンチマンにも襲われるわけですよ。私たちはちゃんと感想言いなさいとかさ、ちゃんと価値を言葉にしなさい、ってことばっかり言われてて、その能力は確かに弱いかもしれないですけどね。でもそのことにコンプレックス感じなきゃいけないのかな、と。日本だって、終わったあとみんなでお喋りしてるわけだし、日本のお喋りの質ってあるわけだし、そのことを卑下する必要もないけども、そこをちゃんと捕まえて欲しい、と思ったりするんだけどな。明治からずっとやってることですよね。日本語では論理的なこと喋れない、とか言って、禅について鈴木大拙が英語で書いたりとかするわけじゃないですか。それでも日本語の曖昧さってものを価値に転嫁する、っていうのはたぶんよくわかんないですけど、うまく行ってないですよね。日本で劇のあとに交わされるお喋りの質ってものがやっぱり僕気になるんです。その独自の価値ってあるはずだ、と思ってます。

山﨑:ありがとうございます。というような形で演劇と言葉、批評がどういう風に関わって行けるか、そして観客とどういう風に関係を結べるのかっていうことを考えながら、3月末の『美学』の公演に向けてブログやら何やらを展開していきたいと思っておりますので、今後の流れも要注目ということでお願いいたします。

【質疑応答】

質問者:映画とか演劇で俳優を見る機会はすごくたくさんあるんですが、そこで見てしまうと俳優そのものの演技ではなく、その俳優が組み込まれている構造の中でしか俳優の演技というものを見れない、っていうことが起きていると思うんですね。映画や演劇について語る、っていうときに、俳優さんの仕事って一番は心に語りかけてくることだと思うんですけど、演劇と映画の構造の部分は言葉にしやすい、けれども俳優の演技自体そのものはどうだったのか、っていうことについては、どうしても「かっこいい」とか「良かった」とか「情熱的だった」とかそういう抽象的な部分に終始してしまう、っていうことがありがちなんですけど。もしかしたら俳優自身が台詞以外の言葉を持って発信していくっていう部分、そういう批評が成り立てば、もちろん既存のものでもあると思うんですけど。でもどちらかというと、俳優が台詞とか以外の部分で言葉を持って前に出てくるっていうようなことは、あまり観客レベルの人には届いてきづらいところがあるのかなと思っていて。もしも俳優から発信する言葉に批評の可能性があるとしたら、それについてはどのように思われますか、特に俳優、あるいは演出をされてる方々というのは。

山﨑:2012年のF/Tで『レヒニッツ(皆殺しの天使)』っていう演目を見たときに、俳優がアフタートークですごい喋ってたのが、強烈に印象に残ってて。日本ではアフタートークに出ることはもちろんあっても、あんなにぶわーって喋れない。それも作品について喋ってたので。確かにあんまりああいう機会ってないなって思ったんですけども。

松井:俳優がやってる作業について喋ることが、どこまで届くか、みたいな感じ。スポーツ選手じゃないですけど、ここの筋肉使ってるとか、ジャンプ力鍛えるためにこういうことやってます、みたいな作業はあると思うんですよね。反射神経的な作業。

例えば、再現するから台詞は決まってるわけだけど、台詞が決まってる中で、いかに新鮮にその作業を繰り返せるか。再現してるものをただ順に見せられても、何も動かない。その中でどういうサプライズを起こしてくか、みたいなことはたぶん常にリアリズムであろうと別のものであろうと、たぶん俳優は作業としてやってると思うんですよね。そのことについて、俳優も語れるはずだと思うんですよ。そのことはハムレットが、ステレオタイプな何かを演じているようで、実は計略とかすごく計算高い男であるような、二重性を纏っている。俳優っていうのも役柄を持ちつつ、でも自分の素かも知れないものを隠し持って、そのうえでサプライズを起こす。しかも段取りなのか段取りじゃないのか、を上手く混ぜながら、やっぱり驚かすってことに関して、すごく俳優は日々考えてるんじゃないかなと思います。ただそれを説明する俳優はあんまり少ないかな。まあ、僕が知ってる人では。

山内:自分の職業について説明する、っていうことですよね、それはおそらく。例えば大工さんみたいな人に作業を説明してもらうとしたら、「これはね…こうやって…難しいんだよ。」ってなる。それですら一つの説明だと思うんですけどもね、言ってしまえば。要するに自分の仕事を通して直接社会と向合う、そういう機会を持とうという意識の俳優は結構増えてると思いますけどね。なんか構造があれば喋りやすいなと思ってるところですね。細馬さんの『あまちゃん』批評の本が出たじゃないですか、あれ面白くて、主に立ち位置とカメラワークと編集のことばっかり書いてるんですけど、端々に「俳優が語ることあるはずだ」って隙間がすごく多いような気がして。あの構造のここで何やってたの、って言われたらいくらでも答えられる感じがありますね。そういうものはフォーマットがあったらいくらでも喋れます。そのフォーマットもまた自分で獲得しなきゃいけないんでしょうね。

綾門:『あまちゃん』は俳優の批評がすごく多く生産された、幸福な例の一つだと思いますね、最近のドラマの中だと。もちろんクドカンの脚本が用意した俳優ではあるんですけども、俳優がかなりクローズアップされてた気がして。しかもそれが、例えば雑誌の表紙で三浦春馬がドーンみたいな感じじゃない俳優のフィーチャーの仕方だったので。そういったものが映画雑誌はあるんですけど、演劇って…。いやもちろんありますけど、俳優のインタビューみたいなものが出にくいなって気がしていて。さっきのドイツの人のアフタートークの話とか、日本でも劇作家・演出家の人と出演陣が並ぶアフタートークはあるんですけど、今まで僕が経験したやつだと、作演の人がベラベラ喋って、俳優の人が「ウフフ」みたいなことになってたんで、あれをどうやったら解消できるのかっていうことを結構考えていて…。

山﨑:作演の人が引っ込んだ方が良いんじゃないの?(笑)

綾門:いや僕のときじゃないですよ!?(笑)自分が観客のときの話で。僕はゲストの方を呼んでのトークしかやったことないですから。

松井:でもゲストよりはるかに喋ってるよね。(笑)

全員:(笑)

綾門:あのときは「ユリイカ」の山本充さんが無口だっただけです!

山﨑:何の話だっけ?(笑)サンプルでも俳優とトークとかはあまり無いんですか?

松井:いや、無いんですよね。だからやってこうと思って。古舘(寛治)さんとかやりたいと思ってるだろうし。俳優自身が自分の技術について語る、それを試みるワークショップっていうのをやってる方は喋れるんですけど、やっぱり普通はオーダーを受けて自分なりにどうするか、みたいなことでしか俳優の技術が日本ではあんまり紹介されてないんですよね。だからやっぱり言葉にしづらいっていうのはあると思う。個人作業になりすぎちゃってる。あるいは対演出家との作業だけで、俳優の基礎だったりとかそういう話にはならない。

質問者:ありがとうございます。そういう言葉を作ってる内側で終わってしまっている。でも、そもそもそういう風にあるべき言葉なのかも知れないですけども。それが外に出てきて、見る側もわかるってことになったら、また新しいのかなって言う風にちょっと思いました。

山﨑:ぜひ山内さんの稽古見学の解説に来ていただけると、何かがわかるかも知れないっていうところですね。

では、今日のイベントはこれで終わりにさせていただきます。どうも長い時間ありがとうございました。

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