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映画美学校アクターズ・コース ブログ

映画美学校アクターズ・コースの公式ブログです。映画・演劇を横断し活躍する「俳優養成講座 」 2016年9月2日(金)開講決定!

『美学』稽古場見学ノオト

批評家養成ギブス×アクターズ・コースのコラボ企画として、アクターズ・コース第3回公演『美学』の稽古場見学をさせてもらっている。稽古場の見学はもちろん初めての経験であるが、率直な感想として、シーン1→シーン2→…と通していく本番とは違って、順序とは関係なく選択されたシーンを何度も反復して稽古している様を見ることはとても不思議な体験だった。

というのは、シーンの途中に指示があった場合には演技は一時中断され、その後、指示があった地点やその少し前から再開されるわけだが、ここで俳優は【役】→【素】→【役】とスイッチを切り替えるかのような素早さで演技のオン/オフを切り替えていたからだ。もしかしたら、俳優側からすれば、それは「演技をして駄目出しをされてその通りやり直す」という一連の流れを特に意識せずに普通に行っていただけなのかもしれない。しかし、「稽古場」であるという状況を一旦カッコにくくって俳優を単に人として眺めた場合、そのような一連の事態は、その人の人格が分裂してしまったかのように見えるのだ。さっきまでAと思っていた人物が急にBになり、かと思えばまだAに戻る。そしてそのAは時間が巻き戻ったかのように先程と同じ台詞を繰り返す。稽古場を見学して一番強烈に体感したのは、このような時空が捩じ曲がってしまったかのような感覚だった。

私が最初に稽古場を見学したのは3/12だった。公演が3/28から始まることを考えれば、2週間以上も時間のあったその時点はまだまだ稽古が煮詰まっていく前の段階であったと思う。その日は全部で4つのシーンの稽古が行われたと記憶しているが、その時点では、俳優の方々も完全に台詞を覚えきっていなかったし、うち1つのシーンの稽古は、直前に手渡されたばかりの台本を初見の状態で読み合わせる、というものであった。つまり、これから本番に向けて稽古を積み上げていくという、極めて最初の段階の稽古場を見学したことになるのだが、普通は本番しか見ることができないわけで、それはそれで極めて貴重な体験であったと言える。実際に、最初だからこそ感じ取れた稽古場の距離感のようなものがあったように思う。稽古の序盤ではどうにもしようがなく、正にこれから稽古によって埋める事が必要になるような距離、のようなものである。

その日の稽古場見学後、青年団に所属しているアクターズ・コースの講師である山内健司氏の解説を伺う機会を頂いた。山内氏は自分の演技観について「演技とは、自分の身体を通じて他者を実現すること」だとおっしゃっていたが、そこで大変興味深かったことは、山内さんがいう「演技の持つ暗さ」というものだ。それはこういうものである。俳優は当然ながら最初から上手く演技をする(=他者を実現する)ことができない。実現したい他者と結果としての自分の演技の間にはどうしてもギャップがある。そのギャップこそが俳優が最初にどうしてもくぐり抜けなければならない演技に関する強い否定の経験である。山内氏はこのような通過儀礼的な「強い否定の経験」をして「演技の持つ暗さ」とおっしゃていた。これは、精神分析家医であるラカンの「鏡像段階論」を想起するものだ。

この辺りから『美学』作演出の田上豊氏も加わり演技指導の話になった。稽古場では、まだ十全に他者を実現できていない演技に対して演出からの演技指導が度々入るわけだが、俳優によっては演技指導という自身の「演技に対する否定」を自身の「人格の否定」として強く受け止めてしまう場合があるとのことだった。つまり、ここにはロールプレイとアイデンティティの取り違えがあるわけだが、私が思うに、両者はそう簡単に区別できるものではなのではないだろうか。教育現場での演劇の授業やワークショプの経歴がある田上氏は「稽古場は学校みたいなもの」とおっしゃっていた。学校とは、学校という場でのロールプレイを通じて子どものアイデンティティの形成を促す場であるとしよう。田上氏の言うように稽古場が学校と似たようなものであるならば、演技と人格の間には密接な関わりがあり、演技の否定を人格の否定と取り違えてしまうのも故のないことではないのではないだろうか。

さて、本作には形而上学のタイトルがつけられているわけだが、それはあえて内容を推測させまいが為のように感じられなくもないため、内容についての直接的なネタバレはやめようと思う。ただ一つだけ言ってしまうと、本作は劇中劇が登場するメタフィクションであり、そこに田上氏の経歴から得られた演劇に対する批評的な視線が十分に発揮されている作品である。それ故、ここまでつらつらと書いてきたのは稽古場見学の感想であるが、実は『美学』という作品自体について書いてしまったという気もしているのだ。

映画美学校 第二期批評家養成ギブス、スピラレ 小金知博

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