映画美学校アクターズ・コース ブログ

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繰り返すことの両義性

『美学』は映画美学校アクターズ・コース第3回公演として上演された。映画美学校アクターズ・コースは俳優を養成するコースであり、今回の公演はその初等科の一年間の総まとめとして位置づけられる。『美学』で描かれるのは漫画専門学校の最終課題たる集団創作に取り組む生徒たちの姿であり、作品で描かれるシチュエーションと作品に取り組む「生徒たち」のそれとの相似は明白である、ように見える。

たしかに、『美学』では漫画専門学校での集団創作の様子を描くことに多くの時間が割かれている。それがアクターズ・コースの生徒たちの置かれた状況と重ねて描かれていることもまた事実だろう。しかし忘れてはならないのは、それが漫画専門学校の生徒の一人だった高橋の回想の形で描かれているという点だ。作品冒頭、高橋は誰もいない教室に一人立ち尽くしている。アラームの音とともに他の生徒たちが入ってくることで回想はスタートし(もっとも、それが回想であることは作品のラストにいたるまではっきりとは示されないのだが)、高橋たちの集団創作は果たしてどうなってしまうのか!?というところで、その結末は示されないままに再び「現在」の高橋に戻ってくる形で作品は閉じる。単にアクターズ・コースの生徒たちとパラレルな状況を劇中に作り出すだけならば、このような外枠の設定は明らかに余計である。なぜ『美学』は回想という形式を必要としたのだろうか。

おそらくここで重要となるのは、作品の最後に置かれた「歴史はね、繰り返すかもしれません」という台詞だろう。この言葉は高橋たちの集団創作の指導にあたっていた宮崎によって二度発せられる。そもそもは宮崎もまた、高橋たちと同じ漫画専門学校の出身であり、一度目の「歴史はね、繰り返すかもしれません」という言葉は、集団創作に取り組む高橋たちに対し、自分(=宮崎)のときと同じように高橋たちの集団創作もうまくいく(かもしれない)から頑張れ、というニュアンスで発せられている。二度目の、そして作品の最後の言葉となる「歴史はね、繰り返すかもしれません」は「現在」の高橋に向かって発せられる。高橋もまた宮崎と同じように、漫画専門学校を卒業後、今度は講師として集団創作を指導しているのだが、今期の生徒たちもまた高橋の代と同じように作品の完成が危ぶまれる状況にあるらしい。すでに卒業した高橋と同期の面々が後輩の漫画の仕上げを手伝うために集まってきた、というこの場面における「歴史は繰り返す」という言葉が示唆するのは、描かれなかった高橋たちの集団創作の顛末、つまりは頓挫しかかった高橋たちの集団創作もまた宮崎をはじめとする先輩たちに助けられることでどうにか完成することができたらしい、ということである。ここでは高橋の代を中心に先輩である宮崎たち、そしてさらに高橋の後輩たちという三つの世代を登場させ複数の時制を組み合わせることで「歴史は繰り返す」ことが端的に示されている。

このように、回想という形式は作劇における一つのテクニックとして見ることができる。繰り返しそのものを描くのではなく、それが繰り返しであることを端々に匂わせることで、九十分という長くはない上演時間の中で「歴史は繰り返す」ことを効率的に(=場面を重複させることなしに)示すことに成功している。「二度あることは三度ある」という言葉があるが、三つの世代を登場させることで「歴史は繰り返す」という言葉の説得力を増すという効果もあるだろう。

劇中では「歴史は繰り返す」という言葉それ自体が繰り返されるわけだが、「歴史が繰り返す」ことは果たして「よいこと」なのだろうか。宮崎が「歴史はね、繰り返すかもしれません」と言うとき、「歴史」という言葉は「集団創作の成功(あるいは完成?)」を意味している。ゆえに「集団創作の成功」を示唆するラストシーンは一つのハッピーエンドと見ることができるわけだが、そこにあるもう一つの歴史の繰り返しを考えるとき、このラストシーンは極めて両義的な意味合いを帯びることになる。それは宮崎の繰り返しとしての高橋の姿だ。

すでに述べたように宮崎も高橋も漫画専門学校を卒業した後、今度は講師として再び学校を訪れている。ここで問題となるのは、宮崎の「私もう書いてないですから」という言葉である。つまり、少なくとも今はもう宮崎はプロの漫画家ではない。宮崎は「漫画家のプロを目指すための専門学校」を卒業したにも関わらず、プロの漫画家にはなれなかった(あるいはプロとして継続的に活動を続けることができなかった)。ここには一つの挫折が暗示されている。では高橋はどうか。作中には「現在」の高橋の状況についての手がかりはほとんどない。「高橋先生」という呼称が漫画家としての「先生」を意味するものなのか、それとも講師としてのそれなのかを判断することはできないのだ。「歴史は繰り返す」という言葉がここでネガティブな意味合いしか持たないことは明らかだろう。

だから、高橋の同期の一人である宇須山の「歴史は繰り返しちゃなんねぇわ!」という言葉は極めて正しい。宇須山は宮崎の代の創作メモに従うこと=歴史を繰り返すことで集団創作を成功させようとする高橋から創作メモを取り上げ破り捨ててしまう。劇中では姿を見せない、宮崎の同期の内藤という人物だけがプロの漫画家として活動していることを考えれば、繰り返す歴史=学校という場所から逃れることのできた人物こそが成功することができる、と見ることさえできるだろう。自らの言葉に従うかのように、宇須山は「現在」には姿を見せない。

ところで、ここで登場する創作メモはまるで演劇の台本のように機能している。そして「繰り返し」は演劇それ自体にも深く関わる言葉でもある。一つの公演が複数回からなることが基本の演劇において、俳優は「歴史を繰り返されなければならない」。一方、『美学』における創作メモがそうであったように、戯曲はそれとして完成してしまえば、別のキャスティングによる上演が可能である。『美学』は今回の公演のためにあて書きのような形で書かれた作品だが、戯曲として存在してしまえば原理的に他の俳優による上演が可能であることは言うまでもない。このとき、俳優は交換可能な存在であり、俳優とは無関係に「歴史は繰り返す」。と言うのはもちろん極端な物言いではあって、同じ戯曲でも違う俳優によって演じられれば異なった上演になる、というのが一般的な見方だろう。だが、そうは見られなかったとき、つまりは俳優が代わっても「歴史は繰り返す」と見なされたとき、おそらくその俳優は生き残っていくことができないということになる。上演台本=創作メモをなぞるだけの俳優は必要とされないのだ。

「繰り返し」が仕事である俳優はその一方で自らの外側で繰り返される歴史には抗う力を持たなければならない。そして繰り返しへの抗いは「様々な役を演じること=交換可能であること」と「独自な俳優としてあること=交換不可能であること」とのせめぎ合いでもある。様々な役を演じる俳優の記憶と様々な俳優によって演じられる役の記憶。それらが交錯する場としての俳優の身体。『美学』のラストシーンは俳優という存在の両義性を描き出している。

山崎健

演劇研究・批評。SFマガジンで「現代日本演劇のSF的諸相」連載中。twitter: @yamakenta    

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