映画美学校アクターズ・コース ブログ

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フィクションコース初等科修了制作で感じた事。そして、その後、演劇創作WSを体験して考えた事 〜フィクションコース16期・加藤正顕

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 [2013年11月30日平田ゼミ発表会:アクターズコース3期+フィクションコース16期による演劇創作プログラムに出演の加藤さん]

私は、去年度のフィクションコース16期初等科で、修了制作を監督しました。

以下に述べる事は、少々、初等科で体験した事へのアンチテーゼのような意見に捉えられるかもしれませんが、テーゼあってのアンチテーゼであって、初等科での体験で得たものは計り知れません。

私は、準備から完成まで期間が決められていて、出演者・スタッフ等のスケジュールを押さえるために、また作品を管理するために効率の良い方法としてある、脚本から企画を始めるという制作方法に対して窮屈さを感じました。だが、それは、修了制作が上手く行かなかった事から来る結果論であって、「初めての制作体制なのだから、上手く行かなかったからと言って、それを言うのは極論だ。」と言われたら、その通りかもしれません。

なので、これは極論です。極論として敢えて考えを進めます。

私は、撮影までに費やされる準備は全て、脚本を書いて、その設計図を実現するためのものになる、という事に窮屈さを感じました。確かに、短時間でまとめあげる、という観点で捉えた場合、完成させるためにはこの方法は最適かもしれない。しかし、これでは、私が思う自主映画のメリットが失われているように、また、設計図に当てはめていくという事は創造であることから作業であることに転じがちに感じました。そして、映画を作る時に、常に、この方法をとる必要が本当にあるのか?と考えました。インディペンデント映画なのだから、その良さを生かした抜本的に主流のものとは違う作り方は無いものか?インデペンデントである事を活かさなければ、ただの低予算映画ではないのか?

そういった意味で、自主も商業も垣根は無いとよく言われますが、どうなのでしょうか?

私は特に、修了制作での失敗?から、監督と脚本からのトップダウンな固くて一方通行な情報伝達モデルに陥らないための方法というものが無いのかと考えるようになりました。撮影の際の脚本と具体化とのズレ。そういった、修了制作における失敗と比べると、去年11月の演劇創作ワークショップで体験した制作プロセスは地に足の着いたもののように感じました。常に具体が目の前にあり、それをだんだん大きく、複雑に膨らませていく感じ。また、そのワークショップのメソッドが集団創作を進め易いものであったので、トップダウンな演出の情報伝達とは反対に、メンバーそれぞれの情報の力関係が対等でした。時には自分のアイデアを妥協しなくてはいけないという点が非常に興味深く、アイデアというものは次から次へと思いつく事が出来るのだから、作業を前進させる事の足枷になるアイデアはいくらでも捨てていいと考えるようになりました。また、お互いが触発し合い、一人で考えるよりも、より多くのアイデアを考えつく事が出来たように思いました。

その結果、脚本から企画を始める事が多い映画に対して、完成までの創造のプロセス・ワークフローが多彩である演劇の事を考え、映画制作で演劇のようなワークショップ的な作り方をとってみるのも面白いのではないか、と思いました。

ここで、先のインデペンデントで映画を作る事に話を戻しますと、去年、美学校映画祭で観た、『ジョギング渡り鳥』(β版)はただの低予算映画ではなかったように思います。舞台裏を鑑みて明らかに、創作のプロセスが普通の映画のものではありませんでした。方法論のラディカルさが映画そのものを自由にもするが荒らしてもいる、といった印象なだけに、観客の評価は賛否あるように思いましたが、私は、インデペントで作るという事にしっかりと意味を持たせている作品として、また個人的には私が去年観た映画のトップ3に入れた作品として、重要な作品だと思いました。商業の場合にある“商品の管理”という足枷が無い事を活かした、綱渡り的な制作というか、そういう感じで作っていたようです。

商業では扱われない内容を扱うというのも自主映画ならではかもしれませんが、私は、創造のプロセス自体が主流とは別なものの方がよりラディカルで、自主でやる事の意義もより大きいと思いました。

そういった事が生まれているような気配をアクターズコースに感じました。