映画美学校アクターズ・コース ブログ

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映画美学校アクターズ・コースの公式ブログです。アクターズ・コース俳優養成講座2021、9/1(水)開講決定!

「俳優について考える連続講座〜演技・環境・生きること〜」/映画の歴史から探る俳優の演技について

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アクターズ・コースで以前学んだ、映画史における演技の変遷から辿る「現代の演技」についての思索を発展的に継続します。演じることについてみんなで考えながら、広く生きることの哲学まで関心を広げていくことを目指します。一方で、今の日本映画の状況と社会の状況を比較しつつ、俳優という職業の在り方を考えていきます。(高等科要綱から抜粋)

深田晃司さんが担当される基礎ゼミ「俳優について考える連続講座〜演技・環境・生きること〜」。(※基礎ゼミ:希望者全員受講可能できるゼミ)

第1回目の冒頭は、ゼミについての説明から始まった。

ー俳優の演技について、ホン読みをしたりして実際に台詞を喋って考えるというよりは、「俳優の仕事」について考えるイメージ。哲学的、観念的に「そもそも演技とはなんなのか」という話をしたい。俳優の技術というよりも演じることの哲学までおりていく、皆で考えていけることを目標にする。また、社会における文化芸術の価値についても話していきたい。

普段、舞台や映像などに関わる際に、「なぜ自分が演じるのか」ということは折に触れて考えることはあるけれど、「なぜ表現が社会に必要なのか」ということは考える機会が少ないように感じて、それが私自身今回この講義を受講しようと考えたきっかけでもある。
自分が劇団に所属している時にはそういうことを考えたり、ディスカッションすることが多かったけれど、フリーで動くようになった今、なかなかそういうことを考えたり、そしてそれを話せる場、団体というものは少ないように感じていた(それは最近、不健康な気がしてならない)。
このゼミを20人ほどが受講しているのだけれど、非常に心強く感じている。

 

 

まずは自己紹介から

今回、人数が多いゼミということもあり、受講生の自己紹介から始まった。深田さんからのお題は「お芝居をやろうと思ったきっかけは何か」ということ。同期からそういうことを聞くことはあったけれど、やはり期をまたぐとなかなかそういうことを聞く機会は少ない。人数が多くて自己紹介は実は1時間40分にも及んだけれど、とても面白い時間だった。

また、自身が受講生の時にも思っていたけれど、深田さんは「受講生を一人の俳優」として向き合ってくれている。講師、受講生としての立場はもちろんあるけれど、上記のように向き合ってくれるのはとても嬉しい。対等にあろうとすることを無意識下に行ってくれているというか。

映画の歴史について

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第1回目の今回は、深田さんがアクターズ・コース生にこれまで講義をしてきた内容の振り返りが主となった。
映画の誕生、歴史について深田さんが語っていく。印象的だったのは上の画像にもある「写真銃」の話からの「カメラの暴力性」の話。写真銃というのはなかなかにごつくて、個人的には非常に心惹かれる物体ではあるのだけれど、ただ「銃」という呼称のとおり、少々暴力的なイメージもある。

カメラに向いていると、相手が期待することを言ってしまったりするし、カメラは決して透明な存在ではない。それが与える暴力性も俳優は知っておく必要がある。そして職業俳優は、「カメラを透明な存在」として扱える技術が必要になってくる(もちろん透明ではありえないのだけれど)

「無意識」の発掘

話はサイレント映画、そしてトーキーにうつっていく。

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「Sunrise: A Song of Two Humans | F.W. Murnau (1927).」

サイレント表現では、言葉がないため表現が「記号的」になる。参考資料として皆で見た上記の映画は、表情は押さえめではあるが、女優のほうは3割ほどデフォルメしている印象。しかし作品のバランスとして非常にいいバランスで成立している(一部抜粋でも非常に面白かった。早く全編を見よう)

そこから、トーキーにうつっていく過程で俳優が喋る必要性、すなわち「声」が求められてくる。そこで、演劇・舞台を主に活動してきた「舞台俳優」と映像とが接近する。演劇の俳優が映像の世界に入っていくようになる。そして、話は1930年代の『グランド・ホテル』、1950年代のロベール・ブレッソンの作品との比較へとうつっていく。
「●●らしく見える」‥‥輪郭がくっきりとした演技は非常に分かりやすいけれども、普段私たちは生活を全て説明しているか?悲しい人は誰から見ても「悲しい」という素振りをしているか?

これまで人間は全て自分を意識でコントロールできると思っていたが、「無意識」が概念として発見された20世記と、それまでとで映像の演技は違ってくるのではないかということを深田さんは述べた。

自分たちの行動は自由意志で選択しているが、その選択が果たしてどこまで自分自身の意識で選択されているのかは誰にもわからない。『グランド・ホテル』はあまりにもコントロールされすぎている。悲しい人が誰から見ても悲しい表現をすることはない。むしろそういうふうに見える人は自意識過剰に見える。(子どもが泣き叫んでおもちゃをせがむのは、日常にあることであり、それが適切なサイズといえる)

「演劇的演技/映像的演技」について

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「演劇的演技」と「映画的演技」の本質は一緒だが、アウトプットの仕方が違う。演劇の演技は劇場のサイズに左右される(例えば、客席が3000人と300人の場合とでは明らかに演技が異なってくる)
「オーバーで演技が合っていない」と言われてしまう場合は、敢えて演出家が意図している場合もあるが、往々にして単純に空間のサイズに見合っていない場合に言われることが多い。

深田さんが映画で求めている演技は、「観客が0人」をベースにしている、という。届けなくちゃいけない観客は「そこにはいない」。目の前には共演者しかいないという感覚が意識されるかどうかで変わってくる。

「説明的である」演技は悪なのか?

舞台を主に活動してきた俳優が、「説明的、オーバーな演技をしている」といわれることは往々にしてある。しかし、深田さんは「説明的であること」は決して悪ではなく、適切な説明量が必要だと語った。

2種類のCMを参考に説明へとうつる。どちらも「家族」を描いたものであるが、一方は朝食の準備を笑顔で幸せそうにしている母親がメインのCM。一方は、日常を過ごす家族を淡々と、あまりデフォルメすることなく映し出したCM。前者の笑顔は家族に見せているものではなく、その笑顔はカメラの奥にいる視聴者への説明としての「記号」として描かれているから、我々は違和感を感じる。(朝食の準備を「毎日している」ということが前提に描かれているCMだが、果たして人は毎日笑顔で準備をするか?という違和感)説明量の適切さについてそのCMを比較することで知った。

「演技する」というスイッチが入ると、そこにいない観客が幽霊のように立ち上がり、過剰な演技をしてしまうことがある。まずきちんと目の前の俳優に届けることが必要。

受講生時代に受けていた講義の復習という一面が強かった講義であるが、改めてこの講義を受けて、普段無意識下で自戒をこめて行っている行動(演技の説明量の調節)を文字化、言語化することの大切さを感じた。
映画美学校アクターズ・コースはその学校名が表すとおり、「映像と演劇」が交わる場であるが、監督がこのように演劇、演技について語ってくれることは自分にとって多角的に演技について語るチャンスをくれる貴重な場所である。

これから更に、演技について深堀りしていく過程に入っていくのが非常に楽しみである。

 

文章:浅田麻衣